「池坐朝霧黄幡比売神社」の版間の差分

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==歴史==
=== 概史 ===
創建年代は不詳だが、[[天平]]2年([[730年]])の『大倭国正税帳』([[正倉院文書]])に「池神」と記載があるので、[[奈良時代]]以前から存在したとされる。[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])には[[神封]]三戸が寄進された(『[[新抄格勅符抄]])。『[[延喜式神名帳]]』では大社に列しており、月次・相嘗・新嘗の[[奉幣]]に預ると記されている。
 
当社は隣接している法貴寺の鎮守社とされた。法貴寺は[[秦河勝]]の草創であるため、[[秦氏]]が祭祀に関わっていたと推測される。[[天慶]]9年([[949年]])[[北野天満宮]]より[[天満宮]]を勧請して相殿に祀ったことから[[中世]]には「法貴寺天満宮」と称するようになり、江戸時代まではこちらの名前で呼ばれていた。[[明治時代]]に入って法貴寺村の天神と称する当社を式内池坐朝霧黄幡比売神社と見做すようになり、改名の上[[明治]]15年([[1882年]])郷社に列格した。