「岩野泡鳴」の版間の差分

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== 親族 ==
父・直夫(([[1849年]] - [[1908)年]])本警察署の巡査で、母・サト(([[1850年]] - [[1895)年]])の岩野家に婿入りした<ref name="yano" />。泡鳴(本名・美衛/よしえ)は長男で、下に長女・はつ,二女・きん,二男・巌,三女・ちゑ,三男・勝があった<ref name="yano" />。父の直夫は実直な働きぶりで岩野家の借金を返したが、女遊びを覚えてからは家庭は不和となった<ref name="yano" />。その後直夫は上京し、皇宮巡査を経て下宿屋を営み、サトが病中に熊谷まつを囲い、サト没後正妻とした<ref name="yano" />。
 
泡鳴の最初の妻・竹腰幸子は東京生まれの3歳年上で、横浜で小学校教師をしていた<ref name=miki/>。[[1895年]]に結婚後まもなく[[結核]]を患い、同じく胸に不調のある泡鳴と療養を兼ねて転居を繰り返すが、不仲となり[[1912年]]に離婚<ref name="yano" />。子に、長女・喜代子(夭折)、次女・富美子、長男・諭鶴(夭折)、次男・薫、三男・真雄、四男・貞雄(夭折)<ref name="yano" />。
 
二番目の妻の遠藤清子(([[1882年]] - [[1920)年]])は[[青鞜]]社同人の婦人解放運動家<ref name=shigure>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000726/files/45977_28185.html 遠藤(岩野)清子][[長谷川時雨]]、「婦人公論」1938</ref>。元[[久留里藩]]士の父親が維新後漢学の私塾を開いたが失敗したため、府立第一高等女学校を中退、東京府教員伝習所を出て教師となり、電報通信社や大阪日報の記者となった<ref name=kotobank2>[https://kotobank.jp/word/%E9%81%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E5%AD%90-1059307 遠藤清子 えんどう きよこ]コトバンク</ref>。妻子持ちの同僚との恋愛に悩んで1909年に自殺未遂を起こし、その年の暮れに別居中の泡鳴と同棲、[[1913年]]結婚し、翌年に長男・民雄(泡鳴の五男)を出産するも、泡鳴と蒲原房枝(英枝)との[[姦通]]事件により別居、離婚を巡って法廷闘争となり、[[1915年]]に『愛の争闘』を刊行、[[1917年]]離婚(その後は花屋を経営後、10歳年下の画学生・遠藤達之助(1892([[1892年]] - [[1977年]]、のち小畠辰之助)と再婚して夫の実家の[[京都]]に転居し長女を出産、胆石により38歳で没)<ref name=yano/><ref name=kotobank2/><ref name=shigure/>。清子没後、民雄は泡鳴の最後の愛人と言われる荒木郁(1888-1943([[1888年]] - [[1943年]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E9%83%81%E5%AD%90-1051117 荒木郁子 あらき いくこ]コトバンク</ref>)に引き取られたが[[関東大震災]]で行方不明となる<ref>[http://img.wan.or.jp/document/web/images/uploads/_723192e2055910cfd38287dfefc4c09e48ea91.pdf 自らを欺かず─泡鳴と清子の愛]尾形明子、[[平塚雷鳥|平塚らいてい]]の会ニュース、2002年1月1日</ref>。
 
三番目の妻・蒲原房枝(英枝)は青鞜社員で、泡鳴の口述筆記者。清子との離婚が成立する前の1916年に泡鳴との間に長女・美喜(泡鳴の三女)を出産、[[1918年]]には長男・諭鶴(泡鳴の六男)を生み、入籍<ref name="yano" />。前夫との間に一子があったが、前夫が家を出たため離婚し教員をして自活していた<ref>『泡鳴全集 第17巻』國民圖書, 1921, p294</ref>。
 
[[正宗白鳥]]は泡鳴を評して「子供に対してほとんど愛情らしいものを感じないのは、日本の作家のうち類例を絶している」と述べ<ref name=miki/>、[[徳田秋声]]も子供を不幸な運命にしている例として、[[島村抱月]]、[[島崎藤村]]、[[田山花袋]]とともに泡鳴の名を挙げている<ref>『徳田秋聲全集, 第 43 巻』p175</ref>。