「ジェームス・ブラウン」の版間の差分

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プリーズ~に脚注
60s-70s初頭のヒットを付加。
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ブラウンとフレームスの初期のシングルは、[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]および[[R&B]]チャートでは成功していたが、彼らの全国的な成功は、キング・レコードの反対を押し切ってリリースした『''Live at the Apollo (1962)''』まで待たなければならなかった。
 
ライブ・アルバムが成功した後、最初のファンク・ナンバーとされる[[1964年]]の「アウト・オブ・サイト・''Out of Sight''」を発表。さらに「'' Night Train''」を制作した。これらの曲は、ギターのカッテングに、ホーンセクションとベース・ドラムスが特徴だった。ブラウンのヴォーカルは、リズミカルバックにのり好調を保った。しかしながら、「''Out of Sight''」はスマッシュ・レコードからリリースされたため、キング・レコードとの契約破棄に関する法廷闘争となり、裁判所は彼の録音作品の1年間リリース禁止を言い渡した。67年ごろのJBJBsのドラムスマーには、「ファンキー・ドラマー」クライド・スタブルフィールドがいた。「コールド・スウェット」はクライドがドラムスを担当した傑作ナンバーであるだった
 
=== 1970年代(ファンキー・プレジデント)===
60年代末から70年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。この時期のヒットとしては「リッキン・スッティック」「スーパー・バッド」「ソウル・パワー」「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ」「アイム・ア・グリーディ・マン」「メイク・イット・ファンキー」などがある。[[1970年]]3月には、ジェームス・ブラウンのバック・バンドに大幅なメンバーチェンジがあった。給料に関するトラブルから、[[メイシオ・パーカー]](テナーサックス)をはじめとするメンバーのほぼ全員が脱退した。それに伴い、[[ブーツィー・コリンズ]](ベース)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる。彼らは「[[JBズ]] The J.B.'s」と名付けられ、その名義でのリリースも行うようになった。ブラウンの「全盛期」を支えたJBズの主要なメンバーは、次の通りである。
* 1970-71年ごろのメンバー
* [[ダリル・ジャミソン]](Darryl 'Hasaan' Jamison) - トランペット
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[[1980年]]、映画『[[ブルース・ブラザース]]』に出演。[[1984年]]、ラップのアフリカ・バンバータとのデュオ「ユニティ」がスマッシュ・ヒット。久々に音楽シーンの注目を集めた。[[1986年]]1月23日には[[ロックの殿堂]]入りした他、[[映画]]「[[ロッキー4/炎の友情]]」に「ソウル界のゴッドファーザー」として出演した。そして同年「リビング・イン・アメリカ」が久々のヒットとなる。さらに[[1988年]]には、フルフォースのプロデュースによる大傑作「アイム・リアル」を発表した。ラップ・ヒップホップのミュージシャンたちから「我が師」として尊敬され、ブラウンの曲はサンプリングされまくる。
 
しかし、そんな矢先にトラブルが発生してしまう。1988年には、薬物吸引中に妻とケンカし、銃を持って家を飛び出し公園のトイレに向かって乱射し、駆けつけた警察とカーチェイスを行った末、ガス欠となって逮捕され<ref>http://www.washingtonpost.com/wp-srv/style/daily/2007/jamesbrown.pdf「Godfather 当該事件に関するFBI資料of soul」</ref>、6年の実刑判決を受けた。
 
=== 1990年代 ===
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[[2005年]]5月6日、ブラウンの72度目の誕生日にオーガスタ市は7フィートのブロンズ像を贈呈した。像は本来その1年前に送られる予定であったが、その当時ブラウンが直面していた家庭内暴力事件のため、延期された。2005年7月6日には''[[LIVE 8]]''の''Edinburgh 50,000 - The Final Push''に出演し、イギリスの歌手[[ウィル・ヤング]]と「''Papa's Got A Brand New Bag''」をデュエットした。また、その1週間前には[[ジョス・ストーン]]と「''Friday Night with Jonathan Ross''」に出演し、デュエットを行っている。
 
[[2006年]]、ブラウンは世界ツアー「''Seven Decades Of Funk World Tour''」を行った最新のショーは、聴衆から肯定的に受け入れられた。最後のショーは、[[オキシジェン・フェスティヴァル]]への出演であった。8月22日、オーガスタ・リッチモンド郡競技施設局(Augusta/Richmond County Coliseum Authority)は、オーガスタ・リッチモンド郡市民ホール(Augusta-Richmond County Civic Center)を[[w:en:James Brown Arena|ジェイムズ・ブラウン・アリーナ]]と改名することを票決した<ref>ブラウンの急逝を受け、2006年12月30日付で改称が実施された。</ref>。11月14日には、イギリス音楽の殿堂入りを果たした。ブラウンは、授賞式で演奏を行った幾人かの受賞者の内の一人であった。
 
=== 死去 ===
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== 家族 ==
ブラウンは、4度の結婚を経験した。最後の妻トミー・ライ・ヒニーとは2002年に結婚したが、その後離婚している。彼らは、2004年に再婚し子供を1人授かった。ブラウンは、また最初の妻ヴァルマ・ウォーレンとの間に2人の子供、2番目の妻ディドレ・ジェンキンスとの間に3人の子供がいる。最後の妻トミー・ライ・ヒニーとは2002年に結婚したが、その後離婚している。彼らは、2004年に再婚し子供を1人授かった
 
== 事件・事故 ==
彼は何度かの有罪判決を受けている。16歳で窃盗の罪で逮捕され、反省すれば8年、反省がなければ16年と差別をたっぷり含んだ判決で、3年服役した。3番目の妻エイドリアン・ロドリゲスに対する暴力行為でも逮捕。計4度逮捕されている。
 
== 来日記録 ==
1973年、1974年、1975年、1979年、1986年、1987年、1992年、1993年、1994年、1995年、1997年、1998年、2002年、2003年、2006年(15回)に来日している。また、返還前の沖縄で1968年に公演を行なっている。[[吉田拓郎]]はアマチュア時代に[[岩国飛行場|岩国基地]]でジェームス・ブラウンの生ライブを観た、「[[ダブル]][[ベース (弦楽器)|ベース]]のダブル[[ドラムセット|ドラム]]で、とにかく音が凄かった」などと話している<ref>[[パックインミュージック]]([[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])1972年5月31日放送での拓郎の言及。</ref>。
*[[1975年]]
: 4月16日 [[中野サンプラザ]]、17日 [[北海道厚生年金会館]]、18日 [[東京厚生年金会館]]、21日 [[大阪厚生年金会館]]、22日 [[中野サンプラザ]]
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* 客席にいた[[マイケル・ジャクソン]]、プリンスが、ステージに飛び入り参加したことがある。先ずマイケルがステージに呼ばれ、彼独特の歌唱と踊りを披露し、観客から喝采を浴びる。そして、プリンスも同会場にいる事を知ったブラウンは、ステージからプリンスを呼ぶ。客席の奥からセキュリティに背負われながら登場したプリンスは、J.B'sからギターを渡されるもまともに演奏が出来ず、さらに上半身裸になり興奮状態のままフラフラとしながら寄りかかった照明器具を倒しつつ、客席に戻った。
* 幼い頃のマイケル・ジャクソンは、ステージの端から彼の驚異的なステップの数々を見て学んだという。その後の彼があるのも、ブラウンによるところが大きいと言える。オーディエンスの沸かせ方も、またそうである。
* 2000年には、[[サマーソニック]]に出演のために来日。初日の東京公演ではただでさえ押していた進行の中、時間から遅れて登場し、さらに持ち時間をオーバーして歌い続けた。しかし、次に控えていた大トリの[[ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン]]のファンであると思われる観客によってステージにペットボトルを投げつけられると袖に引っ込んでしまった。数分後、ステージに戻ってきたブラウンは何事も無かったように歌い続けた。2日目の大阪公演でも同じように時間をオーバーしても歌い続け、運営に照明を落とされるという憂き目を見ている。なお、このにより2日続けて演奏時間を大幅に短縮されてしまったジョン・スペンサーはブラウンを尊敬しているため、それほど怒ってはいないという。
* 1992年に死亡したとの誤報があった。これは[[ハードコアテクノ]]の[[L.A.スタイル|L.A. Style]]がリリースした「James Brown is Dead」のヒットが要因だったと思われる。複数の[[アンサーソング]]が発表されるなど一時期ブームとなった。日本編集盤『James Brown Is Dead Or Alive!?!?』([[avex trax]]、1992年)には、「James Brown is Dead」とそのアンサーソングの代表作が収録されている。
* 日本では、1992年にはカップヌードルのCMに出演した。「Get Up (I Feel Like Being Like A) Sex Machine」の中のフレーズ「Get Up!」が日本人の耳には「ゲロッパ(ゲロンパ)!」と聴こえるという事もあって、それを「ミソンパ!」というフレーズに置き換えJB本人が歌うというパロディであった<ref name=NK930302>「セックス・マシーン'93」 「ミソンパ!」の掛け声『[[日経MJ|日経流通新聞]]』1993年3月2日付、23頁。</ref>。1993年1月21日には「Get Up (I Feel Like Being Like A) Sex Machine」の再録音盤「SEX MACHINE'93」も日本でシングルとして発売、約1か月で1万枚超と、当時の日本における洋楽シングルとしてはヒットとなった<ref name=NK930302 />。
* ニューミュージックのミュージシャンによる音楽ユニット[[フレンズ・オブ・アース]]の『SEX ENERGY & STAR』には、ブラウン自身の歌唱と[[メイシオ・パーカー]]のベースをフィーチャーした「SEX MACHINE」のエレクトロファンク・カバーが収録されている。レコーディングは、86年の来日公演後に行われた。
* 2000年には、[[サマーソニック]]に出演のために来日。初日の東京公演ではただでさえ押していた進行の中、時間から遅れて登場し、さらに持ち時間をオーバーして歌い続けた。しかし、次に控えていた大トリの[[ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン]]のファンであると思われる観客によってステージにペットボトルを投げつけられると袖に引っ込んでしまった。数分後、ステージに戻ってきたブラウンは何事も無かったように歌い続けた。2日目の大阪公演でも同じように時間をオーバーしても歌い続け、運営に照明を落とされるという憂き目を見ている。なお、この独演により2日続けて演奏時間を大幅に短縮されてしまったジョン・スペンサーはブラウンを尊敬しているため、それほど怒ってはいないという。
* ツアーやライブのない時には、サウスカロライナ州ビーチアイランドの川岸の自宅で生活していた。
* ニューミュージックのミュージシャンによる音楽ユニット[[フレンズ・オブ・アース]]の『SEX ENERGY & STAR』には、ブラウン自身の歌唱と[[メイシオ・パーカー]]のベースをフィーチャーした「SEX MACHINE」のエレクトロファンク・カバーが収録されている。レコーディングは、86年の来日公演後に行われた。
<!--*スパイク・リーがJBをテーマとした新作映画の準備にはいった。JB伝説はまだまだ続く。将来のことなのでコメントで-->
* 1992年に死亡したとの誤報があった。これは[[ハードコアテクノ]]の[[L.A.スタイル|L.A. Style]]がリリースした「James Brown is Dead」のヒットが要因だったと思われる。複数の[[アンサーソング]]が発表されるなど一時期ブームとなった。日本編集盤『James Brown Is Dead Or Alive!?!?』([[avex trax]]、1992年)には、「James Brown is Dead」とそのアンサーソングの代表作が収録されている。
* 日本では、1992年にはカップヌードルのCMに出演した。「Get Up (I Feel Like Being Like A) Sex Machine」の中のフレセックス・マシズ「Get Up!が日本人耳には「ゲロッパ(ゲロンパ)!」と聴こえるという事もあって、それを「ミソンパ!」というフレーズに置き換えJB本人が歌うというパロディであった<ref name=NK930302>「セックス・マシーン'93」 「ミソンパ!」の掛け声『[[日経MJ|日経流通新聞]]』1993年3月2日付、23頁。</ref>。1993年1月21日には「Get Up (I Feel Like Being Like A) Sex Machine」の再録音盤「SEX MACHINE'93」も日本でシングルとして発売、約1か月で1万枚超と、当時の日本における洋楽シングルとしてはヒットとなった<ref name=NK930302 />。
<!--*スパイク・リーがJBをテーマとした新作映画の準備にはいった。JB伝説はまだまだ続く。将来のことなのでコメントアウトで-->
 
== ディスコグラフィ ==