「電算写植」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
9行目:
電算写植システムの前史として、漢字テレタイプ(通称「漢テレ」)と呼ばれるシステムがある。
1950年代以前、文書を遠隔通信する際はモールス信号などの電信符号を機械でかなに翻訳する「かな印刷電信」が使われていたが、同音異義語を漢字変換する際のミスが起こりがちだったことから、漢字かな交じり文を高速に遠隔通信するためには主に[[伝書鳩]]が使われていた。
1959年に各新聞社の統一文字コードである[[CO-59]]が策定されたこともあり、1960年代初頭には日本の新聞各社で漢テレが実用化された。これは、新聞社の本社や共同通信社などから配信された記事を、日本の各地域の新聞社が漢テレで紙テープ(鑽孔テープ)に記録し、それを自動活字鋳植機(モノタイプ)に送って鋳植するもので、従来の手作業で打字しながら活字を鋳植するのに比べて圧倒的な高速化が可能となった。▼
そんな中、1955年に朝日新聞社と新興製作所によって、漢字かな交じり文を電信で遠隔通信する「漢字テレ」と呼ばれるシステムが試作される。これは、漢字かな交じり文を電信的にやり取りするための符号化コード、符号を紙テープ(鑽孔テープ)に記録する文字盤付きの鑽孔機「漢字テレタイプ」、紙テープを読み取とって符号を送信する送信機、遠隔地で受信して紙テープに記録する受信機、紙テープを読み取って印字する「漢字テレプリンタ」などからなるものであった。
この当時のシステムは、記事の受信装置、記事を紙テープに出力する鑽孔機、紙テープの内容を印字する漢テレ、紙テープの内容を読み取って鋳植する全自動活字鋳植機、で構成されていた。まだ活字であり、写植ではなかった。▼
▲1959年には各新聞社の統一文字コードである[[CO-59]]が策定されたこともあり、1960年代初頭には日本の新聞各社
その後、出版における写植の導入とコンピューターの導入が同時に進められ、1970年代には「Computer Typesetting System」と呼ばれるシステムが各社に構築されることとなる。日本では写研のSAPTONシステムが初の電算写植システムで、まず小規模印刷から導入が進んだ。▼
▲この当時のシステムは、記事の送信・受信装置、記事を紙テープに出力する鑽孔機、紙テープ
▲その後、出版における写植の導入とコンピューターの導入が同時に進められ、1970年代には「Computer Typesetting System」と呼ばれるシステムが各社に構築されることとなる。日本では写研
=== SAPTONシステム ===
|