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'''常溪君'''(サンケイクーン、[[朝鮮語]]:상계군、[[1769年]][[1月21日]]〜[[1786年]][[11月20日]])は、名前は'''李湛'''と本名は'''李濬'''、[[韓国]][[李氏朝鮮]]後期の王族である。彼は王世子に任命されなかったが、[[洪国栄]]によって潜在的な王位継承者に指名されて假東宮と呼ばれた。まもなく付け爵号'''完豊君'''に封爵たが、完豊君に完は全州李氏王室の故郷である[[完山]]([[全州]]に所属した一村里の地名)から取ったものであり、豊は豊山洪氏として[[洪国栄]]と[[元
== 生涯 ==
彼は[[恩彦君]]と本妻の[[常山郡夫人宋氏]]の長男として生まれた。彼が生まれたときは[[英祖]]の統治期間だったが、しかし[[英祖]]は[[正祖]]のほか[[思悼世子]]の庶出子孫をそっぽを向いて、生活を全く世話しなかった。
[[洪国栄]]は[[金鍾秀]]と老論清流派連合して、王世孫[[正祖]]を削除しようとする[[老論]]僻派と闘争し、晩年の[[英祖]]は[[洪国栄]]、[[金鍾秀]]と[[老論]]清流派の手をあげた。[[1776年]][[正祖]]が即位、[[正祖]]は後宮三人を正式選ば後の結婚式を経て迎えた、[[洪国栄]]の妹[[元
養子縁組の過程については、[[元賓洪氏]]が死んだ後養子縁組したという説と[[元
王妃[[孝懿王后]]は不妊であった。しかし[[正祖]]は20代半ばの若い年齢であり、他後宮や他の女性から妊娠が可能だった。[[洪国栄]]は[[金鍾秀]]と老論清流波によって逆賊に集まっ糾弾されて公職から追放された。[[洪国栄]]に反感を抱いた[[老論]]僻派また[[洪国栄]]の追放に加担した。
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*実母:[[常山郡夫人鎭川宋氏]]、1753年10月15日 - 1801年4月4日、(宋樂休の娘)
*義父:[[正祖]]
*義母:[[元
*妻:平山郡夫人平山申氏、1770年6月13日 - 1801年3月17日、(申瑍の娘)
*庶弟:[[全溪大院君]]李㼅、実父[[恩彦君]]の妾全山郡夫人全州李氏の次男そして[[哲宗]]の実父
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== 関連項目 ==
* [[恩彦君]]
* [[元
* [[正祖]]
* [[洪国栄]]
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