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'''東漢 駒'''(やまとのあや の こま、生年不詳 - [[崇峻天皇]]5年([[592年]])[[11月 (旧暦)|11月]])は、[[飛鳥時代]]の人物。[[東漢氏]]。[[カバネ|姓(カバネ)]]直(あたえ/あたい)、'''東漢直 駒'''<ref>[[舎人親王]]、『[[s:zh:日本書紀/卷第廿一|日本書紀]]·卷第廿一』:"乃使東漢直駒弑于天皇。〈或本云。東漢直駒東漢直磐井子也。〉"</ref>。父は[[東漢磐井|東漢直磐井(いわ]]か。<ref>『[[聖徳太子伝暦]]』一本</ref>また、駒の別名を'''駒子'''とも記される。[[カバネ|姓いわおカバネと、また]]は[[直]]。東漢磐井別名を'''駒'''という
 
=== 出典経歴 ===
崇峻天皇5年([[592年]])11月、[[蘇我馬子]]の刺客として[[崇峻天皇]]を[[暗殺]]する。しかしその月に、馬子の娘である[[河上娘]](崇峻天皇の嬪)との密通が露見し、馬子によって[[死刑|処刑]]された(崇峻天皇暗殺の口封じといわれている)。
[[用明天皇]]2年([[587年]])用明天皇が[[崩御]]すると[[大臣]]・[[蘇我馬子]]は[[大連]]・[[物部守屋]]を攻め滅ぼし[[朝廷]]の実権を握って[[崇峻天皇]]を擁立する<ref>『日本書紀』用明天皇2年7月条,8月2日条</ref>。やがて、崇峻天皇と対立関係となった馬子に命ぜられ、崇峻天皇5年([[592年]])11月に駒は崇峻天皇を[[暗殺]]する<ref>『日本書紀』崇峻天皇5年10月4日条,11月3日条</ref>。その後、駒は馬子の娘である[[河上娘]](崇峻天皇の[[嬪]])を奪って自らの妻とするが、河上娘を穢されたことを知った馬子に殺害された<ref>『日本書紀』崇峻天皇5年11月条</ref>(崇峻天皇暗殺の口封じともされる)。
 
== 関連項目脚注 ==
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* [[西漢氏]]
==脚注==
=== 出典 ===
*[[舎人親王]]、『[[s:zh:日本書紀/卷第廿一|日本書紀]]·卷第廿一』、720年。
=== 注釈 ===
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== 参考文献 ==
{{Japanese-history-stub}}
*[[宇治谷孟]]『日本書紀 (下)』[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、1988年
 
{{DEFAULTSORT:やまとのあや の こま}}
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[[Category:暗殺者]]
[[Category:刑死した人物]]
[[Category:6世紀年不明]]
[[Category:592年没]]