「栃錦清隆」の版間の差分

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=== 若乃花との取り組み ===
若乃花とは1951年5月場所の初対決から、いきなり激しい攻防の大熱戦を演じ(この初対決は若乃花の勝ち)、以来常に熱戦・好勝負を演じ続けてきた。1953年3月場所にはあまりの大勝負に栃錦の水引が切れて髷がほどけ、しばらくそのまま取組を続けたが動きが止まったところで行司が待ったをかけ、土俵下でとりあえずの髷を結って勝負再開、大熱戦の末に栃錦が外掛けで勝った<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p51</ref><ref>『大相撲ジャーナル』2018年3月号 p.58-59</ref>。栃若の対戦となれば[[水入り]]は当たり前、激しい技の打ち合いとしのぎ合いの連続は観衆だけでなく、当時日本に登場した[[テレビ]]を通して全国のファンを熱狂させた。小さい体で大兵肥満の力士たちをなぎ倒す二人の姿に、敗戦から復興に向けて立ち上がる日本の姿を、そして自らを投影した人々は多かった。土俵狭しとめまぐるしく動き回る二人の攻防がテレビ時代の到来にふさわしいものであったとも言える。この二人の対決と、それを取り巻く数多の個性的な力士たちの活躍により相撲人気は一気に高まり、今なお戦後最高と呼ばれる黄金時代となっていった。1950年代のこの黄金期を世に '''「栃若時代」'''という。
 
両者の対戦は、1951年5月場所 - 1960年3月場所の40場所間で34回実現(栃錦の1不戦勝を含む)し、千秋楽において両者優勝圏内の対戦が5回(相星決戦が2回)あった。また両者の相撲は水入りになることが多かった。'''千秋楽'''(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。