「対華21カ条要求」の版間の差分

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'''対華21ヶ条要求'''(たいか21かじょうようきゅう)は、[[第一次世界大戦]]中、[[日本帝国]]([[日本]])が[[中華民国の歴史|中華民国]]政府と行った外交交渉において提示した21か条の要求と希望のこと。'''二十一か条要求'''などとも呼ばれる(中国語版では「[[:zh:二十一条|二十一条]]」)。この交渉では直接の懸案である山東ドイツ権益の善後処理だけでなく、従来からの懸案であった満蒙における日本の権益問題や在華日本人の条約上の法益保護問題についても取り扱われた。
 
{{Wikisource | 対華21ヶ条要求}}
 
== 経緯 ==
[[第一次世界大戦]]が欧州[[ヨーロッパ]]で始まり、日本帝国は[[日英同盟|第三回日英同盟協約]]により1914年8月23日に[[ドイツ帝国]][[宣戦布告]]連合国の一員として参戦した。参戦に際し日本政府はドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を8月15日に発し、その中で[[膠州湾租借地]](青島)の全部を支那国(中華民国)に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求した<ref>山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2010073015303267699&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&]P.4(アジア歴史資料センター)</ref>。しかしその真意は決して文面どおりのものではなかった<ref>白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書7、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]</ref>。日本政府は租借地の解消とともに外国人(日本人)居留地を設営したのち従来のドイツ商権および鉄道運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに外交問題となった。
 
第一次世界大戦において中華民国は当初は中立であり<ref>1917年8月14日にドイツ・オーストリアに宣戦布告</ref>日本の対独宣戦布告に対し、[[山東半島]]において交戦区域を設定した。この交戦区域は中華民国が日独英に一方的に通告したものであったが、ドイツは[[膠済線|膠済鉄道]]を物資補給に利用し、日本はこれを占領するなど交戦区域外での軍事行動が行われ、また中華民国も交戦区域からの逸脱を有効に排除しえなかった<ref>伝統的国際法においては、交戦国以外の中立国には一連の義務があり、中立国の領域および領水は、交戦国の敵対・作戦行為が禁止された非交戦区域であり、中立国には交戦の防止や排除の役割が求められる。しかし実際の戦史ではこの中立国の義務はしばしば有効に機能せず、第三国の領域が攻撃対象とされ、あるいは交戦区域に取り込まれるかはほとんど武力紛争当事者の判断に委ねられている。「武力紛争時の第三国領域使用の帰結」森田桂子[http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j8_2_2.pdf]P.31,45</ref>。日本軍は1914年10月末に実施した[[青島の戦い]]のさい「交戦区域」外に進出、膠済鉄道がドイツ軍の物資輸送に利用されているとしてこれを占領し<ref>中立国には公平義務があり、交戦当事国の一方に便宜を提供しない回避義務を負う。「国際的中立の一考察」倉頭甫明(広島経済大学研究論集)[http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/bitstream/harp/3678/1/kenkyu1971000413.pdf]PDF-P.6</ref>、10月7日には終着駅である済南府停車場まで進出している<ref>(参考)日独戦争と俘虜郵便の時代39[http://www.takahashistamp.com/2note39.htm]</ref>。済南は山東省の首都であり、[[イ坊市|維県(維坊)]]はドイツ[[膠済線|膠済鉄道]](山東鉄道)上の重要都市である。[[青島市|青島]]攻略後も膠済鉄道の附属地域の占領は継続された。