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|位置画像説明 =
|位置画像幅 =
|公用語 =任那語
|宗教 =
|首都 =
|元首等肩書 = [[天皇]]
|元首等年代始1 = [[509412年]]
|元首等年代終1 = [[562453年]]
|元首等氏名1 = [[欽明允恭天皇]]
|変遷1 = 任那の文字初出([[広開土王碑]])
|変遷年月日1 = [[414年]]
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|変遷年月日2 = [[562年]]
|現在 = {{KOR}}
|元首等氏名=|元首等氏名2=[[欽明天皇]]|元首等年代始2=[[509年]]|元首等年代終2=[[562年]]}}
}}
{{Double image aside|right|Map of Gaya - han.png|165|任那・加羅、百済、新羅.png|165|{{center|[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]、4~5世紀半ばの朝鮮半島}}{{small|左は韓国の教科書で見られる範囲、右は日本の教科書で見られる範囲。半島西南部の解釈には諸説がある。}}}}
{{朝鮮の歴史}}
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1983年に[[慶尚南道]]の松鶴洞1号墳(墳丘長66メートル)が[[前方後円墳]]であると[[嶺南大学校|嶺南大学]]の[[姜仁求]]教授が実測図を発表したが<ref>『[[歴史通]]』2014年1月号[https://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2 ironna]姜仁求教授によると、全長66メートル、後円径37・5メートル、前方部が若干丸みを帯びているが、円墳2基ではなく前方後円墳であるという。後円部上に石材が露呈するが、それは[[鳥居龍蔵]]が1914年に発掘した竪穴式石室の一部である。『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』[[中央公論社]]、ISBN 978-4120016912</ref>、後の調査により、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱したが<ref>[[沈奉謹]]編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』(東亜大学校博物館、2005年)</ref>、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、[[改竄]]工事を行った疑惑が持たれている<ref>『[[歴史通]]』2014年1月号[https://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2 ironna][[森浩一]]によると、1983年に訪ねた際はダブルマウンドが丘陵上に造営されており、前方後円墳であることに躊躇なく、その後鳥居龍蔵が戦前に撮影した側面[[写真]]が発見されたことで確認できたが、その後、現在の形が近年の変形であるという噂話があったが、その噂話が意図的に流されていると感じていたという。松鶴洞古墳の発掘は、「発掘もある種の遺跡の破壊」という考古学の事例であり、近年の変形を示す兆候は存在しないが、原形がダブルマウンドなのかの前提を抜いて、円墳連続説が発掘開始直後から提出され、結論ありきの結果が流布されており、「これは学問の手順として明らかに間違っているし、学問の名において文化財を変形・改変することになる。」と批判している。</ref>。これに関して[[1996年]]撮影写真は前方後円墳であったものが、[[2012年]]撮影写真では3つになっているという指摘がある(出典先に写真あり<ref>『[[歴史通]]』2014年1月号[https://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2 ironna]</ref>)。
 
朝鮮半島南西部では前方後円墳の発見が相次ぎこれまでのところ[[全羅南道]]に11基、[[全羅北道]]に2基の前方後円墳があることが確認されている<ref name="kokugakuin">[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=44 國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」]
* 前方後円墳に関する韓国報道など[http://s03.megalodon.jp/2008-0906-2110-36/www.chosunonline.com/article/20071118000001][http://s02.megalodon.jp/2008-0906-2112-04/www.hani.co.kr/section-009000000/2001/09/009000000200109062248001.html]</ref>。
 
また朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、[[百済]]が南遷して併呑を進める以前に存在した任那地域の西部<ref name=yoshida/>や半島の南端部に存在し、円筒[[埴輪]]や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている<ref name=kokugakuin/>。