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[[File:ParkesAgression.jpg|250px|thumb|[[明治天皇]]との謁見に向かう途中に襲撃されたパークス一行]]
[[1868年]](慶応4年・明治元年)、[[鳥羽・伏見の戦い]]の勃発、幕府軍の敗北、慶喜の大坂城脱出を知った。幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。[[神戸事件]]が勃発、[[アメリカ合衆国海兵隊|アメリカ海兵隊]]・フランス水兵とともにイギリス警備隊を率い備前藩兵と交戦した。兵庫に派遣されてきた新政府使節・[[東久世通禧]]と会談、新政府の開国和親・条約遵守の方針を確認し、神戸事件についてもほぼ解決に至った。公使団を説得し<ref>フランス公使ロッシュはこれに先立ち1人だけ江戸に戻り、徳川慶喜と会見、再起を促したが、慶喜はこれを拒否した。</ref>、[[戊辰戦争]]への[[中立|局外中立]]を宣言した<ref>この局外中立宣言のため、幕府が米国から購入した装甲艦[[東艦|ストーンウォール(甲鉄)]]は、横浜に係留されることとなった。1869年2月9日、局外中立が解除されると明治政府は甲鉄を購入。これに危機を感じた[[榎本武揚]]ら[[蝦夷共和国|箱館政権]]側は、同艦の奪取作戦を計画し、[[宮古湾海戦]]が起こった。しかし作戦は失敗、結果として箱館政権は戦力を減らしてしまった。</ref>。
新政府の正当性を宣言するため各国外交団に[[明治天皇]]への謁見が許された<ref>イギリスが京都での天皇との謁見を強く主張していたのに対して、他の国々は新政府の東征軍が江戸へ向け進撃を開始していたので居留民保護のためにも早急な横浜帰還を希望していた。</ref>矢先に[[堺事件]]がおきたが、同事件解決後に京都に行き、[[三条実美]]・[[岩倉具視]]などに会い、天皇にも謁見した。御所に向かう途中に一行は二名の暴漢に襲われた([[幕末の外国人襲撃・殺害事件#パークス襲撃事件|パークス襲撃事件]])。襲撃者は護衛に撃退され、パークスは無事であったが、謁見は3日後に延期された。新政府の東征軍が江戸に接近している頃に横浜へ戻り、横浜の治安維持にあたる一方、慶喜処分案や[[江戸無血開城]]に影響を与えた<ref>東征軍大総督府参謀として幕府代表[[勝海舟]]と交渉にあたった[[西郷隆盛]]が[[パークス]]の意向をうまく利用して新政府側の意見のとりまとめを行ったのではないかという見解もある。(『遠い崖』第7巻参照)。</ref>。
大坂で天皇に謁見し新政府への信任状を奉呈、諸外国では最初に新政府を承認した。
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