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街は、皇帝[[コンスタンティヌス1世]]のお気に入りとなり、彼はここにローマ浴場を建設した。現在もその大部分は残っている。彼の息子の[[コンスタンティヌス2世]]は、この街で生まれた。[[コンスタンティヌス3世]]は、ここで[[西ローマ帝国]]の西部の皇帝になることを宣言し、408年にここを都とした。
 
帝国末期には、街は文化的と宗教的な中心地となった。懐疑論の哲学者である{{仮リンク|ファウォリヌス|en|Favorinus}}はここで生まれた。街はローマカトリック教会にとっても鍵となる位置にあり、ガリアのキリスト教化の重要な基地となった。街の主教職は一連のすぐれた聖職者たちによって支えられた。225年頃の{{仮リンク|トロフィムス|en|Trophimus of Arles}}に始まり、{{仮リンク|アルルの聖ホノラトゥス|fr|Honorat d'Arles}}(Saint Honoré)、5世紀前半の{{仮リンク|アルルの聖ラリウス|fr|Hilaire d'Arles}}(Saint Hilary)と引き継がれた。
 
===中世===