「ルイージ・ダッラピッコラ」の版間の差分
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囚われの歌はオペラではない。 |
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ダッラピッコラは[[1920年代]]に[[フィレンツェ音楽学校]]でピアノの学位をとり、[[1931年]]には同校の教授となった。以降、[[1967年]]に老人病により継続できなくなったために[[エルネスト・コンソーロ]]に交代し引退するまでそこで副科ピアノを教えた。彼はまた、ルイジ・ケルビーニ音楽学校の[[ヴィート・フラッツィ]]から作曲を学んだ。ダッラピッコラの教え子には[[アブラハム・ザルマン・ウォーカー]]や[[ルチアーノ・ベリオ]]がいる。
[[ベニート・ムッソリーニ]]による[[ファシスト]]政権下でのダッラピッコラの幼少期の経験は、彼の後の人生の展望や作品を特徴づけたといえるだろう。彼は一度[[プロパガンダ]]を信用してムッソリーニを援助したことがあり、[[1930年代]]になって初めて、[[第二次エチオピア戦争]]や[[スペイン内戦]]へのイタリアの介入に反対する政治的視点を熱烈にもつようになった。ムッソリーニが[[アドルフ・ヒトラー]]の人種観に賛同したことはダッラピッコラのユダヤ人の妻ラウラ・ルッツァートにとって脅威となり、彼の考えはより強固なものとなった。『囚われ人の歌 ''Canti di prigionia''』(1938-41)と[[オペラ]]『囚われ人 ''Il
[[第二次世界大戦]]中、彼は[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]と対立したために危険にさらされていたが、それでも彼はいつも通りに仕事をこなそうと努力し、限られた範囲では実際にこなしていたが、二度ほど数ヶ月間身を隠さなければならないこともあった。ダッラピッコラは演奏家として旅行も続けていたが、旅行先はナチスの占領を受けていない地域に限られた。
彼の作品が人々の目に触れるようになった([[オペラ]]『囚われ
ダッラピッコラは[[1972年]]以降は健康を害してもはや作曲を完成させることができなくなり、[[1975年]]に[[フィレンツェ]]で[[肺水腫]]のため逝去している。しかしながら、この時期の作品の下書きや断片がごくわずかながら残されており、その中には彼が亡くなる数時間前に作られて未完のまま残された[[声楽]]曲などがある。
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器楽伴奏付きの単声作品『ギリシャ抒情詩 ''Liriche Greche''』(1942 - 45年)が、ダッラピッコラ最初の完全に十二音技法で作られた作品であろう。これと同時期に、彼の最後の純粋な全音階作品であるバレエ『マルシア ''Marsia''』(1943年)も作曲されている。その後の10年間で、彼の技術の洗練と、ヴェーベルン作品の影響の増加が見て取れる。その後[[1950年代]]から、若い頃の露骨で情熱的なスタイルとは対照的な、彼が作りだした優雅で観照的なスタイルが彼の作品の特徴となった。彼の作品の大部分は、単声と器楽伴奏のための声楽曲である。彼の楽器法に対する特徴は、その[[印象派#音楽|印象主義]]的な官能性と柔らかな基調であり、[[木管楽器]]や[[弦楽器]]の通奏音(特に[[クラリネット]]や[[ヴィオラ]]など中音域の楽器)に重点が置かれている。
3つの政治的
==主な作品==
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*3つの賛歌 ''Tre laudi'' (1936-7年)
*夜間飛行 ''Volo di Notte'' (1938年)
*囚われ人の歌 ''Canti di prigionia'' (1938-41年)
*ミュリエル・クーヴルーのための小協奏曲 ''Piccolo concerto per Muriel Couvreux per pianoforte e orchestra'' (1939-41年)
*ギリシャ抒情詩 ''Liriche Greche'' (1942-5年)
*マルシア ''Marsia'' (1943年)
*囚われ人 ''Il prigionero'' (1944-8年)
*アントニオ・マカードのための4つの抒情詩 ''Quattro liriche di Antonio Machado'' (1948年)
*ヨブ ''Job'' (1950年)
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