「徳田球一」の版間の差分

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徳田は[[第二次世界大戦]]終戦後の[[1945年]](昭和20年)[[10月10日]]に、[[府中刑務所]]を訪れた[[フランス人]][[ジャーナリスト]]の[[ロベール・ギラン]]によって発見され出獄、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]を「解放軍」と呼んだ。日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で[[日本共産党中央委員会幹部会委員長|書記長]]に就任する。[[1946年]](昭和21年)には[[中華民国]]から帰国した[[野坂参三]]と共に[[衆議院|衆議院議員]]に当選(続いて中選挙区の東京3区より以後3期連続当選)。同年、従兄・耕作の未亡人である[[徳田たつ]](旧姓金原)と結婚した。翌年[[1947年]](昭和22年)には[[二・一ゼネスト]]に関与し、連合軍([[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]])との蜜月は解消された。
 
[[1950年]](昭和25年)、[[徳田要請問題]]が発生し[[証人喚問]]を受ける。[[コミンフォルム]]から批判を受け共産党が内部分裂した([[所感派]]の項を参照)。また6月に[[公職追放]]([[レッドパージ]])され、7月に[[団体等規正令]]に基づく出頭命令を拒否したため逮捕状が出され、地下に潜行した。同年10月、[[大阪港]]から[[中華人民共和国]]に[[亡命]]し、幹部による指導機関である[[北京機関]]を組織した。このとき徳田は「安静にして余命4年」という健康状態であったが、この事実は幹部以外には秘匿された。徳田は引き続き党の全体方針決定をおこなうことが確認され、亡命先から地下放送の「[[自由日本放送]]」を通じて[[武装闘争]]方針を指示した。しかし、やがて北京機関内部では[[国際派 (日本共産党)|国際派]]との妥協を唱える[[野坂参三]] ・[[西沢隆二]]らとの対立が表面化する。[[1951年]](昭和26年)7月には徳田は自己批判をおこなっている。[[1952年]](昭和27年)9月末に入院、まもなく意識不明の重体となった。[[1953年]](昭和28年)、脳細胞血管の痙攣のため<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)19頁</ref>[[北京市|北京]]で病死、徳田のその死は[[1955年]]まで公表されなかった。同年[[9月13日]]に北京で開催された徳田の追悼大会には3万人が参列した。
 
== 墓所・記念碑 ==
19,809

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