「アレクサンドル・グラズノフ」の版間の差分

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やはり1884年にベリャーエフは、音楽ホールとオーケストラを借り切って、グラズノフの《「スラブ風」交響曲》と最新作の管弦楽組曲を上演した<ref name="rimsky275">Rimsky-Korsakov, 275.</ref>。リハーサルの成功に気を良くしたベリャーエフは、翌年のシーズンにグラズノフらの作品による公開演奏会を行うことを決心する<ref name="rimsky278">Rimsky-Korsakov, 278.</ref>。この目論見は、[[1886年]]から[[1887年]]のシーズンに開会された、「ロシア交響楽演奏会」へと膨らんだ<ref>Rimsky-Korsakov, 279, 281.</ref>。
 
[[1885年]]にベリャーエフは、[[ライプツィヒ]]に自前の[[楽譜]]出版社を創設し、グラズノフやリャードフ、リムスキー=コルサコフ、ボロディンらの作品を自費で出版した。すると新進作曲家がベリャーエフの援助を懇願するようになった。提出された作品を選定してもらうため、ベリャーエフは、リャードフやリムスキー=コルサコフとともに出版社の顧問に就任するようグラズノフに依頼した<ref>Maes, 173.</ref>。ベリャーエフを囲んで結成された作曲家集団は、結局のところ「[[ベリャーエフ・サークル]]」として名をなすようになった<ref name="volkst349"/>。
 
=== 名声 ===