「平野長泰」の版間の差分

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[[天正]]7年([[1579年]])、家人であった父同様に、若くして[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕えた。天正10年([[1582年]])の[[本能寺の変]]の後、秀吉と[[柴田勝家]]が対立し、天正11年([[1583年]])に[[賤ヶ岳の戦い]]で決戦をした際に、[[福島正則]]、[[片桐且元]]らと共に格別の働きをして一番槍の巧名を顕したと賞され、[[賤ヶ岳の戦い#賤ヶ岳の七本槍|賤ヶ岳の七本槍]]と称えられた。その功績によって[[河内国]]で3,000石の知行を与えられた。
 
天正12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]では、4月9日、長久手で[[豊臣秀次|羽柴秀次]]が敗走した時に長泰は敵に突進して首級を挙げ、5月1日、[[二重堀砦跡|二重堀砦]]の戦いでも奮闘した。[[文禄]]4年([[1595年]])8月に2,000石の加増となり、[[大和国]][[十市郡]][[田原本藩|田原本]]近隣七ヶ村において5千石の知行を与えられた。[[慶長]]3年([[1597年|1598年]])3月15日、従五位下遠江守に叙任され、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜された。
 
慶長5年([[1600年]])、[[徳川家康]]の[[会津征伐]]に従軍して、[[関ヶ原の戦い]]では東軍に属した。[[徳川秀忠]]に従って中山道隊に加わったが、これは関ヶ原の本戦には間に合わなかったために目立った手柄を立てる事はできなかった。しかし以後も秀忠に仕え、慶長17年([[1612年]])、[[二条城]]の御殿の普請に加わり、その功を賞された。