「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の版間の差分

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[[1946年]]、[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィル]]との第二次世界大戦後初の演奏会を前に、戦時中[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の党員であった<ref>[[1933年]][[4月8日]]、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だった[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]への入党手続きをとった。ナチスの党員簿によると、最初の入党後カラヤンは行方不明扱いとされ、最初の党員番号は抹消されており、同年[[5月1日]]に[[ウルム]]で再入党している。当時のことを後年「私にとってナチス党員になることはスキークラブの会員になる程度の感覚だった」と述懐している。戦後の非ナチ化審理の際、カラヤンは[[1935年]]、アーヘン市立歌劇場のポスト就任と同時に入党と申告しているが、なぜ非ナチ化委員会でカラヤンの申告が不問にされたかは謎に包まれている。ただし、[[リチャード・オズボーン]]著の伝記では「戦後の時代に誤った情報が多く流された」とされており、議論の前提となる資料に多くの誤りがあったと述べられている。</ref> ことを理由に、[[ソビエト連邦|ソ連]]の占領軍によって公開演奏停止処分を受けた。しかし、翌[[1947年]]には再び処分保留となった。
 
[[1948年]]に[[ウィーン交響楽団]]の首席指揮者、翌[[1949年]]に[[ウィーン楽友協会]]の音楽監督に就任。また、イギリスのレコード会社[[EMI]]の録音プロデューサーの[[ウォルター・レッグ]]の元で、[[フィルハーモニア管弦楽団]]との演奏活動および[[レコード]]録音も盛んに行うようになった。[[1951年]]、戦後再開した[[バイロイト音楽祭]]の主要な指揮者として抜擢される。しかし、翌年には音楽祭を主催する[[ヴィーラント・ワーグナー]]と演出を巡って対立。この後、ヴィーラントの死後も[[バイロイト祝祭劇場|バイロイト]]に戻ることはなかった。この時期ウィーンフィルおよびウィーン国立歌劇場とも断絶状態となっている
 
[[1954年]]11月、ドイツ音楽界に君臨していた[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]が急逝したことで、フルトヴェングラーとベルリンフィルとのアメリカ演奏旅行の代役を果たし成功をおさめ、翌[[1955年]]に[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィル]]の終身首席指揮者兼芸術総監督の地位に登りつめ、[[1989年]]まで34年もの長期間この地位にとどまった。