「ネブカドネザル2世」の版間の差分

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== 来歴 ==
ネブカドネザル2世は[[新バビロニア]]帝国の建国者[[ナボポラッサル]]の最も年上の子にしてかつ、彼の後継者である。彼は紀元前630年頃に生まれた。ネブカドネザル2世は[[旧約聖書]]の中に「ネブカドネツァル」として現れることでも知られる。[[バビロン]]は3世紀にわたり、同じメソポタミアの国家である[[アッシリア]]へ従属し続けていたが、ナボポラッサルはバビロンを[[アッシリア]]から解放した。また、ナボポラッサルは[[メディア王国|メディア]]や[[アケメネス朝|ペルシア]]、[[スキタイ]]、[[キンメリア人|キンメリア]]との同盟のもと、[[ニネヴェ (メソポタミア)|ニネヴェ]]を滅ぼした。[[ベロッソス]]によれば、彼がバビロンの王になる数年前に、バビロン王朝と結ばれた(姻戚関係になった)らしい。{{仮[[ニトクス (バビロ)|バビロンのニトクリス|en|Nitocris of Babylon}}]]女王が彼の妻だったとも、あるいは娘だったともいわれ、相反する記述が残されている。<br>
 
[[ナボポラッサル]]は、当時、エジプトの[[ネコ2世|ネコ2世]]の勢力圏にあったシリア西部地域の{{仮リンク|古代アラム|en|Aram (biblical region)}}を[[バビロニア帝国|新バビロニア]]のものにすることを決意。この目的を達成するため、彼は息子ネブカドネザルに大軍を与えると、西方へ派遣した。ネブカドネザルは紀元前607年から606年にかけて皇太子として[[アッシリア]]に遠征し、[[ハッラーン|ハラン]]にあったアッシリアの残存勢力を攻撃。紀元前606年から605年にかけてそれを助けるべく出兵した大国[[古代エジプト|エジプト]]の王[[ネコ2世]]率いるエジプト軍に撃退されると、父親に代わって軍の総裁となって軍を立て直し、[[カルケミシュ]](現在のジュラーブルス)と[[ハマト]]でエジプト軍を打ち破って[[歴史的シリア|シリア]]の大半を制圧。シリア地方と[[フェニキア]]はバビロニアの支配下に入った([[カルケミシュの戦い]])。ところが、父王ナボポラッサルは[[紀元前7世紀|紀元前605年]][[8月15日]]に死去。ネブカドネザルは急きょ[[バビロン]]へ帰還し、三週間で政権を握り、父の王位を継ぎバビロニア王となった。<br>