「アート・ブレイキー」の版間の差分

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== 日本との関係 ==
親日家として知られる。[[1961年]]の初来日以降、何度も日本で演奏をおこなった。
親日家として知られる。[[1961年]]の初来日以降、何度も日本で演奏をおこなった。彼の演奏した曲の中には"Ugetsu(雨月)" On The Ginza(オン・ザ・ギンザ)"など、日本をテーマにしたものも存在する。メッセンジャーズにも'70年代以降[[鈴木良雄]]、[[鈴木勲]]等の日本人がレギュラーまたは客演で加わっているほか、かつての妻の一人も日本人であったという。また来日時には、日本人ドラマーの[[ジョージ川口]]、[[白木秀雄]]らともドラム合戦を繰り広げた。自分の息子に「Taro(太郎)」と名付けていたり、[[日本酒]]を大いに気に入り、千鳥足でステージに上がったこともあったという。使用するドラムも晩年は日本の[[パール楽器製造|Pearl]]と契約し、亡くなるまで愛用した。
 
初来日時、彼はとあるファンから記念写真をせがまれ、「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」と驚き、ファンが「そんなこと知ってます。ぜひ一緒に」と答えたことにまたまたさらに驚き喜んだ。当時のアメリカ有色種に対する差別が露骨な公然と行われていた為、ブレイキー一行はそのファンの反応に戸惑いを感じると同代だっに、大いに感銘を受け。また東京ようある。彼がTBS系列で日本全国奏した曲の中ラジは"Ugetsu(雨月)" On The Ginza(中継されると聞かされてン・ザ・ギンザ)"など日本始めジャズテーマにしたものも存在する。メッセンジャーズにも'70年代以降[[鈴木良雄]]、[[鈴木勲]]等メンバ日本人がレギュラまた客演で加わってに奮起しるほか、かつての妻の一人も日本人であっというこの初また来日時の感激が親には、家ア本人ドラマト・ブレイキの[[ジョジ川口]]、[[白木秀雄]]らともドラム合戦生んだと伝えられている繰り広げた帰国を前自分の息子、彼は私は今まで世界を旅しTaro(太郎)」と名付け[[日本ほど私の心に強い印象酒]]残してくれた国はな。それは演奏を聴く態度は勿論、何よに気に入も嬉しいのはアフリカを除いて、世界中千鳥足日本だけステージに上我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間もあったして! ヒューマンビーイングとして!」<ref>A DAY WITH ART BLAKEY 1961 いう。使用するドイナーノーツ記載ムも晩年は日本スイングジャ[[パ誌昭和61年2月号の記事抜粋文</ref>楽器製造|Pearl]]も述べてい契約し、亡くなまで愛用した
 
また東京での公演がTBS系列で日本全国にラジオ中継されると聞かされて、彼を始めジャズメッセンジャーズのメンバーは大いに奮起した。前述の初来日時の感激やインスピレーションが、親日家アート・ブレイキーを生んだと伝えられている。帰国を前に、彼は「私は今まで世界を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として! ヒューマンビーイングとして!」<ref>A DAY WITH ART BLAKEY 1961 ライナーノーツ記載のスイングジャーナル誌昭和61年2月号の記事抜粋文</ref>とも述べている。
 
その後、亡くなる間際まで来日を繰り返し、特に夏のフェスティバルでは顔役的存在であった。