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===フェラーリ時代===
==== 跳ね馬の新旗手 ====
[[File:Lauda at 1974 Dutch Grand Prix (3).jpg|thumb|right|220px|1974年の[[オランダグランプリ]]]]
[[ファイル:Niki Lauda 11.jpg|thumb|right|220px|1975年のラウダ]]
;[[1974年]]
:[[南アフリカグランプリ]]で自身初のポールポジションを獲得。続く[[スペイングランプリ]]ではポール・トゥ・ウィンで初勝利を達成し、シーズン中盤にはドライバーズポイント首位に立った。[[イギリスグランプリ]]ではレース終了間際にピットインした際、観客の乱入によりコースに復帰できず5位となる珍事が起きた。この年は2勝し、最多の9ポールポジションを獲得したが、終盤戦の5連続リタイアによりタイトルを逃した([[ドイツグランプリ]]や[[カナダグランプリ]]でミスもしていた)。しかしこのシーズンは、徹底したテスト・ドライブこそが、レースで高性能を引き出す鍵であることをラウダは理解した。[[アンダーステア]]を抱えていた[[フェラーリ・312B|312B3]]を進化させる為、フェラーリの工場に隣接する[[フィオラノサーキット]]を納得するまで走り込んだ。
;[[1975年]]
:テストを積極的に行い、[[フェラーリ・312T|312T]]を開発。第3戦[[南アフリカグランプリ]]より投入された312Tは信頼性も高かった。ラウダは5勝9ポールポジションをあげ、速さと安定した走りでポイントを重ね、[[F1世界チャンピオンの一覧|ワールドチャンピオン]]となった。フェラーリの[[F1コンストラクターズチャンピオンの一覧|コンストラクターズタイトル]]獲得にも貢献した。監督のモンテゼーモロ、デザイナーの[[マウロ・フォルギエリ]]との関係も良好だった。しかし、そのモンテゼーモロは同シーズンで監督を退き、[[フィアット]]に戻った。後任は[[ランチア]]のレース部門を管理していた[[ダニエル・オーデット]]が就任した。
 
==== 大事故からの生還 ====
[[ファイル:LaudaNiki19760731Ferrari312T2.jpg|thumb|220px|right|1976年のドイツグランプリ]]