「川端康成」の版間の差分

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Dr jimmy (会話 | 投稿記録)
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戦時下の時代には、文芸も完全な統制下に置かれ、[[谷崎潤一郎]]の『[[細雪]]』や、『源氏物語』などが[[発禁]]となっていた<ref name="itaga15"/>。多くの文学者が[[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]]の報道班員として徴用され、なかには進んで[[自由主義]]的な作家の摘発に努めた作家もいる中、川端は極端な影響はされずに、暗い時代の流れを見据えながらも、少しずつマイペースで『名人』などの自分の作品を書き継いでいった<ref name="itaga15"/>。12月25日に[[片岡鉄兵]]が旅先で死去した(50歳没)。[[東京駅]]に片岡の[[遺骨]]を迎えて、車中から家屋や橋が爆弾でやられた跡を見ながら川端は[[荻窪 (杉並区)|荻窪]]へ向かった<ref>「片岡鉄兵の死」(新文學 1945年3月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=211-217}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=188-195}}に所収</ref>。
 
[[1945年]](昭和20年)4月に[[志賀直哉]]/大井孝一郎 笛方 宗家 総家元 別名 住田多蔵も含むかもしれない(御貴孫は[http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=GeE71krfwKwJ&p=his+grandson+%28TOM%29TAKASHI+OHI%2F大井孝+also+a+worldly+respectable+follow&u=https%3A%2F%2Fsimple.wikipedia.org%2Fwiki%2FThe_Beatles 大井孝]);の推薦で海軍報道班員([[少佐]]待遇)となり<ref name="takado">{{Harvnb|高戸|1994|pp=219-220}}。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=529-530}}</ref>、[[新田潤]]、[[山岡荘八]](新田と山岡は正式徴用の報道班員)と共に[[鹿児島県]][[鹿屋航空基地]]に赴き、1か月滞在して[[特別攻撃隊]][[神雷部隊]]を取材した<ref name="haisen"/><ref name="jitsuro314">「第三章 作家的声名の確立――特攻隊への鎮魂」({{Harvnb|実録|1992|pp=153-156}})。{{Harvnb|文学大系|1990}}に抜粋掲載</ref>。3人が着いてまもなく飛行機墜落事故があった。昼夜問わず[[空襲]]もあり、そのたび山の中の[[防空壕]]に駆け込んだ。山岡荘八は、「こんなとこでは死んでも死にきれないだろう」と驚き、川端はただじっと黙ってその方角を見つめ、その大きな目の中は真っ赤だったという<ref name="yamaoka">[[山岡荘八]]「最後の従軍」([[朝日新聞]] 1962年8月6日-10号)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=530-534}}、{{Harvnb|小谷野|2013|p=344}}に抜粋掲載</ref><ref name="takado"/>。〈[[沖縄戦]]も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた〉と川端は述懐している<ref name="haisen"/>。川端はこの取材により、[[朝日新聞]]の[[特攻兵器]][[桜花 (航空機)|桜花]]についての『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』という記事に、「神雷(桜花のこと)こそは実に恐るべき武器だ(中略)これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ」「親飛行機の胴体に抱かれて行く、いわば子飛行機のこの神雷兵器は小さな飛行機の形をしていて色彩も優美で全く可愛い(中略)神雷による勝機は今眼前にある、必勝を信じて神雷にまたがり、淡々と出撃する勇士等に恥づかしくない心をもって生産戦に戦い抜かう、爆撃に断じて屈するな」という談話を載せている([[朝日新聞]] 1945年6月1日)。山岡はこの取材の体験で作家観が変わるほどの衝撃を受け<ref name="yamaoka"/>、死に赴く若い特攻隊員たちの姿を見た川端は、その感慨をのちに『生命の樹』に取り入れている<ref>「生命の樹」([[鎌倉文庫#婦人文庫|婦人文庫]] 1946年7月号)。{{Harvnb|小説7|1981|pp=333-364}}、{{Harvnb|反橋|1992|pp=105-142}}に所収</ref>。
 
5月1日には、[[久米正雄]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[中山義秀]]、[[高見順]]、[[大佛次郎]]ら、鎌倉在住の文士と共に、自分たちの蔵書を元に、貸本屋「[[鎌倉文庫]]」を八幡通りに開店した{{refnest|group="注釈"|ほかに、[[大佛次郎]]、[[清水昆]]、[[小島政二郎]]、[[横山隆一]]、[[林房雄]]、[[永井龍男]]らも、日替わりで店番をした<ref name="kamakura">[[高見順]]「敗戦日記」(昭和20年5月22日付)。『敗戦日記』(文藝春秋新社、1959年4月。文春文庫、1981年8月、中公文庫、2005年7月)。{{Harvnb|進藤|1976|pp=428ff}}に抜粋掲載</ref>。}}。これは「道楽」ではなく、「食へない文士」が生活のために商っていたのであった<ref name="kamakura"/>。8月15日、日本が敗戦した当日はラジオの前で、一家揃って正装して[[天皇陛下]]の[[玉音放送]]を聞いた<ref name="hideko5">「第五章 鎌倉文庫」({{Harvnb|秀子|1983|pp=173-196}})</ref>。その報は、『源氏物語』の世界に〈恍惚と陶酔して〉いた川端の胸を厳しく打った<ref name="aishu"/>。その2日後の17日、川端は鎌倉養老院で[[島木健作]]の死(42歳没)を看取った。11月、川端はそれらについて『新潮』で以下のように語った<ref name="shimaki">「島木健作追悼」(新潮 1945年11月号)。{{Harvnb|雑纂1 |1982|pp=43-44}}に所収</ref>。