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特に『信長公記』によれば、使者としての活躍も見られ、天正7年(1579年)「四月十八日 塩河伯耆守へ銀子百枚遣はされ候、御使森乱(蘭丸)、中西権兵衛相副へ下され、過分忝きの由候なり」、天正8年(1580年)「正月廿六日、森乱御使にて、濃州岐阜御土蔵に、先年、鳥目一万六干貫入れおかれ侯」などの例がある。また、母である妙向尼は織田信長と[[石山本願寺]]との争い([[石山合戦]])の和睦成立に奔走した際に、成利を通じて情報を得て信長と直談判をしたとされる。なお信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した<ref>森嵩正『森蘭丸の母とその流れ~妙願寺史に沿って』近代文芸社、1996年。</ref>。
 
天正10年([[1582年]])、[[甲斐国|甲斐]][[武田氏]]滅亡後は[[甲州征伐]]に貢献したとして[[信濃国|信濃]][[北信地方|川中島]]に領地替えとなった兄・長可に替わって美濃[[金山城 (美濃国)|金山城]]の城主<ref>『[[信長公記]]』</ref><ref>『[[兼山記]]』</ref>、あるいは美濃[[岩村城]]([[岐阜県]][[恵那市]][[岩村町]])の城主となり、5万石を与えられたという<ref name="GekitoOdagundan" /><ref group="注釈">『信長公記』『兼山記』では長可に代わって金山城の城主となっており、『遠山来由記』、『[[巌邑府誌]]』では森蘭丸が[[岩村城]]を、[[団忠正]]が金山城を与えられたと記されている。</ref>。ただし成利は在城せず、長可の家老・[[各務元正]] が成利に付けられ、城代を務めた<ref name="戦国180"/>。
 
同年、[[本能寺の変]]において[[本能寺]]で[[明智光秀]]の軍1万に囲まれて健闘するも、信長に槍で傷を負わせた明智配下の[[安田国継]](天野源右衛門)によって討ち取られた<ref name="戦国180"/>。享年18<ref name="戦国180"/>。討たれる際、成利は白小袖を着て修善寺の平元結びで髪を茶筅髷に結っていたといわれる<ref name="戦国180"/>。ただし、これは源右衛門本人の証言によるものであり、信長に槍で傷を負わせたという証言にも疑問が残っており<ref>天野源右衛門覚書</ref>確証はない<ref>名将言行録</ref>。『本城惣右衛門覚書』ではまた異なる記述がなされてある。<ref>本城惣右衛門覚書</ref>さらに[[ルイス・フロイス]]の『[[フロイス日本史|日本史]]』では信長はしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自ら部屋に入り、襖を閉じてそこで自害したとされている。このように信長や成利の最期も諸説が入り乱れており、確たる事実は明らかになってはいない。