「ヤマハ・モーター・レーシング」の版間の差分

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{{MGP|2003}}には、ビアッジに代わり[[マルコ・メランドリ]]とアレッシャンドレ・バロスが加入。チェカのチームメイトとなる。しかしながらこの年、ヤマハチームはドゥーハンとNSRが完全にシーズンを制圧しシーズン12勝を挙げた97年以来となるGP最高峰クラス未勝利で終わり、表彰台もバロスがウェットコンディションのフランス・ルマンで得た3位表彰台1回のみとなった。マシン開発では、開幕戦の鈴鹿でリアサス2本タイプで排気管がセンターアップタイプという一風変わったプロトタイプのYZR-M1がテスト参戦(阿部典史がライディング)するなど、迷走と言っても良い内容となった。その主な理由は、エンジンの出力特性があまりにもピークパワー重視型になってしまったことによると考えられる。その証拠にバロスの開幕戦鈴鹿の予選での転倒やチェカのシーズン中の再三の転倒、そしてシーズン最終戦のバレンシア戦の終了後にジャーナリストや元GPライダーを招いて行われるインプレッション走行で、80年代の名GPライダーであるランディ・マモラがYZR-M1での走行後にチェカに対して語った「俺はお前を尊敬するぜ!あんなに乗りにくいバイクで一年間レースを走ったんだろ。俺はあんなのは初めてだ、コーナー立ち上がりでアクセルを開けたら、まるで尻尾を踏まれた猫みたいにいきなりギャン!ってなるんだからな。」というコメントをしたと言われており、安心してアクセルを開けられないバイクとなっていたようだ。
 
{{MGP|2004}}はバロスに代わり[[バレンティーノ・ロッシ]]が加入すると、シーズン9勝を挙げMotoGPクラス初チャンピオンをチームにもたらす。前年の未勝利から一転した結果が得られた理由は、エンジン特性が低回転域からマイルドに吹け上がり、なおかつトラクション(駆動力)性能の良い位相同爆エンジンになり、ピークパワーはあえて向上させず、マシンがコーナリング中で傾いた状態からでもアクセルを開けやすい性格になったことや4バルブエンジンへの回帰があげられる。ヤマハ本社の上層部の意向ではより一層ピークパワーを上げる選択肢もあったが、新加入のロッシがピークパワーての不利を承知の上で敢えてこう言ったエンジン特性のマシンを望んだことなどがヤマハハンドリングとも言えるコーナリングからのなめらかで素早い加速につながるマシン作りへと結実し、それが前述の結果に表れたと言える。この年以降、ヤマハは「ライダーフレンドリーなマシン開発」をテーマとして安定した成績を残すようになった。マシン開発の上では重要なターニングポイントとも言える一年になった。
 
{{MGP|2005}}にはロッシのチームメイトに[[コーリン・エドワーズ]]が加入。この年もロッシはシーズン11勝という圧倒的な強さでチャンピオンシップを連覇する。昨年ロッシ加入と共に見直されたマシン開発の方向性から、さらなる改良でピークパワーを上乗せしつつ車体特性の最適化がなされ、そのためにリアサスの応力を受けるピボットをエンジン後部のギアボックスに設置するなどの改良が施され、ピークパワーが上がり過激になったエンジン特性を電子制御スロットルなども導入してコントロール性とピークパワー向上の両立がはかられた結果がロッシの11勝での圧倒的なタイトル獲得につながった。さらにコンストラクタータイトルも獲得。浅間火山レース参戦に始まったヤマハモータースポーツ50周年を記念する素晴らしい成績で2005年を締めくくった。