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[[ファイル:Dabrowszczacy_przysiegaja_wiernosc_sprawie_Republiki.jpg|左|サムネイル|[[スペイン内戦]]に参戦した[[国際旅団]]の[[ポーランド人]][[義勇兵]]]]-->
[[ファイル:Francisco_Franco_1930.jpg|右|サムネイル|307x307ピクセル|[[フランシスコ・フランコ]]総統。1939年から1975年までスペインの事実上の元首として君臨した。]]
共和政の左派と右派が農地をめぐり激しく対立した。1936年2月の選挙で{{仮リンク|左翼共和党 (スペイン)|en|Republican Left (Spain)|label=左翼共和党}} (IR)、[[スペイン社会労働党|社会労働党]] (PSOE)、[[スペイン共産党|共産党]] (PCE) ら左派連合の[[マヌエル・アサーニャ]][[スペイン人民戦線]]政府が成立した。これに対抗した[[フランシスコ・フランコ]]将軍の[[スペイン軍|軍部]]反乱が、人口を等分する[[スペイン内戦]]に発展し国民経済を分断した<ref name=hirota198>『スペイン経済の歴史』 198-201頁</ref>
 
8月初め共和政はカタロニア、バスク、アストゥリアスといった主要工業地帯のすべてを手中におさめていた<ref name=hirota198 />。農業地帯では新カスティーリャ、レバンテ、アンダルシア東部、アラゴンおよびエストレマドゥーラの一部がその勢力下にあった<ref name=hirota198 />。共和政は、軽工業と重工業をほぼ独占していたが、食料は園芸作物・オリーブ・かんきつ類の生産に特化している地域へ依存した<ref name=hirota198 />。ブルゴスを拠点とする反乱軍は、勢力圏内で全国小麦生産の2/3と、じゃがいも・野菜の半分以上と、砂糖の九割を生産した<ref name=hirota198 />。反乱軍は工業生産の不足を解消するため、8月ビスカヤに猛攻を仕掛け12月に制圧した<ref name=hirota198 />。ビスカヤはスペイン国民総生産36%の源泉であった<ref name=hirota198 />。金融制度も分断された。共和政はスペイン銀行の準備金46.7億ペセタを9月にモスクワへ送った<ref name=hirota198 />。反乱軍はスペイン銀行から90億ペセタを超える貸付をうけた<ref name=hirota198 />。偏った二つの経済圏は外国の支援も需要した。共和政は[[ソビエト連邦]]と[[国際旅団]]の支援を受けた<ref>島田顕 『ソ連・コミンテルンとスペイン内戦』 一橋大学 2005年</ref><ref>川成洋 「スペイン内戦と国際旅団の誕生」 法政大学教養部紀要 (82), p115-126, 1992-02</ref>。反乱軍は[[ナチス・ドイツ]]と[[イタリア王国]]とクラインワート(現[[ソジェン]])の支援を受けた<ref>斉藤孝 『戦間期国際政治史』 岩波書店 1978年 236頁(ドイツとイタリア)</ref><ref>"¿Quién puso el dinero para el golpe del 18 de julio y la Guerra Civil?". Publico. Retrieved 2 February 2018. (Kleinwort Benson)</ref>。スペインは甚大な物的人的損害を被った。50万人が死亡<ref>[http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/spain/3212605/Spanish-Civil-War-crimes-investigation-launched.html Spanish Civil War crimes investigation launched], Telegraph, October 16, 2008</ref>、50万人が国を捨てて亡命した<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/2809025.stm Spanish Civil War fighters look back], BBC News, February 23, 2003</ref>。スペインは社会基盤も破壊され国力を喪失した。このようにして反乱軍は勝利した。
 
=== フランシスコ・フランコとスポンサー ===
[[フランコ体制下のスペイン]]は一応ファランヘ党の[[一党制]]であったが、フランコにさからう党員は投獄された<ref name=hirota198 />。プリモ将軍の愛国同盟を吸収したファランヘ党は、[[反共主義]]・[[カトリック教会|カトリック主義]]・[[ナショナリズム]]を掲げた。1938年の労働憲章はイタリアのそれを土台としていた<ref name=hirota198 />。[[第二次世界大戦下のスペイン]]は[[枢軸国]]寄りであり([[フランキスモ]])、ソ連と戦うための[[義勇兵]]として[[ナチス・ドイツ]]に[[青師団]]を派遣したが、正式な参戦はせずに中立を守った。1939年、全国産業公社([[:en:Instituto Nacional de Industria|Instituto Nacional de Industria]])を創設した<ref name=hirota218>『スペイン経済の歴史』 218-219頁</ref>。これはイタリアの産業復興公社([[:en:Istituto per la Ricostruzione Industriale|IRI]])を真似た公営コンツェルンであった<ref name=hirota218 />。1940年6月にアメリカが1億ドルの借款を申し入れてきたが、フランコはすぐに拒否した<ref>『スペイン経済の歴史』 207頁</ref>。戦時中、全国産業公社は20社を支配する軍産複合体に成長した一方で<ref name=hirota218 />、フランコの統制経済が小麦生産量を激減させた<ref name=hirota213>『スペイン経済の歴史』 213頁</ref>。戦後1947-8年[[アルゼンチン]]から大量に買い付けて国民が命をつないだ<ref name=hirota213 />。1949年にファランヘ党が国民運動に改称した。ファシズム体制のスペインは政治的・経済的に孤立していたが、1953年9月アメリカと相互防衛条約をむすんだ<ref>『スペイン経済の歴史』 207頁</ref>。このころから開発を目的とした農地整理が行われたが、再分配は行われなかったので、アンダルシアのラティフンディオは健在であった<ref>『スペイン経済の歴史』 215-216頁</ref>。工業政策が繊維部門の過剰生産を誘導した<ref name=hirota208>『スペイン経済の歴史』 208頁</ref>。1954年、法令で公共部門の賃金を引き上げた<ref name=hirota208 />。インフレ圧力が高まって資本が逃避した<ref name=hirota208 />。1955年スペインは[[国際連合]]に加入した。1956年に土地法([[:es:Ley del Suelo de España|Ley del Suelo de España]])を制定。1957年モロッコとの間で[[イフニ戦争]]([[:en:Ifni War|Ifni War]])が勃発した。1958年冬までに、外貨準備が僅か1000万ドル、経常収支純赤字6000万ドルをかかえた<ref name=hirota208 />。イタリアの債権国がスペイン経済に干渉していた。1958年スペインは[[欧州経済協力機構]]・[[国際通貨基金]]・[[国際復興開発銀行]]に加盟した<ref name=hirota209>『スペイン経済の歴史』 209頁</ref>。この同年、[[フランス銀行]]元副総裁[[シャルル・ド・ゴール#再登板とリュエフ|ジャック・リュエフ]]がスペインに招かれていた<ref name=hirota209 />。欧州経済協力機構と国際通貨基金の使節団もである<ref name=hirota209 />。彼らの審議結果は、1959年7月と8月に公布された一連の政令となり、スペイン経済の青写真となった<ref name=hirota209 />。デフレ政策とペセタ切り下げが実施された(1ドル60ペセタ)<ref name=hirota209 />。自給自足をするのかしないのか優柔不断であったフランコは、ここで一連の法律を制定し外資を誘致する姿勢を前面に押し出した。1959年の経済計画のために外国から総額4.2億ドルの資金援助が寄せられた<ref name=hirota209 />。内訳の一部を紹介しよう。欧州経済協力機構からのクレジット1億ドル<ref name=hirota209 />。国際通貨基金引き出し権7500万ドル<ref name=hirota209 />。チェース・マンハッタン(現[[JPモルガン・チェース]])および[[シティバンク|ファースト・ナショナル・シティ]]両行からの商業信用7000万ドル<ref name=hirota209 />。[[合衆国輸出入銀行]]からの借款3000万ドル<ref name=hirota209 />。1959年に[[バスク祖国と自由]](ETA)が[[バスク民族主義]]を掲げて結成された。1953-61年の間に、スペインは経済援助だけで6億ドル強の贈与と4億ドルの借款を受け、さらに軍事援助として4億3680万ドルも受け取った<ref name=hirota208 />。1962年から1968年にかけて、アメリカの援助額は大幅に減少するとともに、借款が贈与の7倍となった<ref name=hirota208 />。利子以外にも、米国製品を購入するという負担が借款にはつきまとった<ref name=hirota208 />。1968年10月12日スペインは[[赤道ギニア]]の独立を認めた。フランコ時代の末期に外資の参加割合が最も大きかった産業部門は、化学・食品加工・鉄鋼・非鉄金属等であった<ref>『スペイン経済の歴史』 225頁</ref>。スペイン全体が経済特区と化していた。1973年ETAがフランコの後継者と目されていた[[ルイス・カレーロ・ブランコ]]首相を暗殺した。
 
=== ナショナリズム衰退と金融スキャンダル ===
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=== 枯渇が近い鉱産資源 ===
スペインの鉱業資源は19世紀から[[リオ・ティント]]などの外国資本に思い切り採掘されてきた<ref>『スペイン経済の歴史』 82頁</ref>。21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。国際競争力が相対的に低下し、外資の投下される産業分野が多様化している。
 
有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める[[亜炭]](1228万トン)が有力。品質の高い[[石炭]](975万トン)、[[原油]](32万トン)、[[天然ガス]](22千兆ジュール)も採掘されている。主な炭鉱は[[アストゥリアス州]]と[[カスティーリャ・イ・レオン州]]にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。