「今村昌平」の版間の差分

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| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 =『[[にっぽん昆虫記]]』<br />『[[神々の深き欲望]]』<br />『[[復讐するは我にあり]]』<br />『[[ええじゃないか (映画)|ええじゃないか]]』<br />『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』<br />『[[黒い雨 (映画)|黒い雨]]』<br />『[[うなぎ (映画)|うなぎ]]』<br />『[[カンゾー先生]]』
| アカデミー賞 =
| カンヌ国際映画祭 = '''[[パルムドール]]'''<br />[[第36回カンヌ国際映画祭|1983年]]『[[楢山節考  (1983年の映画)|楢山節考]]』<br />[[第50回カンヌ国際映画祭|1997年]]『[[うなぎ  (映画)|うなぎ]]』
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| エミー賞 =
| グラミー賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
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| セザール賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀監督賞'''<br />[[第3回日本アカデミー賞|1979年]]『[[復讐するは我にあり]]』<br />[[第13回日本アカデミー賞|1989年]]『[[黒い雨 (映画)|黒い雨]]』<br />[[第21回日本アカデミー賞|1997年]]『[[うなぎ  (映画)|うなぎ]]』
| フィルムフェア賞 =
| ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br />[[1963年]]『[[にっぽん昆虫記]]』<br />[[1979年]]『[[復讐するは我にあり]]』<br />'''脚本賞'''<br />1963年『にっぽん昆虫記』
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== 経歴 ==
[[東京府]][[東京市]]の大塚で耳鼻咽喉科の開業医の三男一女の三男として生まれる。父・半次郎は[[兵庫県]][[加東郡]][[東条町|東条村]]に生まれ、[[東京帝国大学]]医学部卒業後、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]に耳鼻咽喉科医院を開業<ref name="densetsu">香取、2004年、pp.71-77</ref>。母は[[北海道]][[小樽市]]の漁師の娘だった<ref name="densetsu"/><ref>『[[北海道新聞]]』2006年5月31日</ref>。[[小学校]]の同級生に俳優の[[北村和夫]]がいた。長兄は[[フィリピン]]で戦死。
 
香取、2004年、pp.71-77</ref>。母は[[北海道]][[小樽市]]の漁師の娘だった<ref name="densetsu"/><ref>『[[北海道新聞]]』2006年5月31日</ref>。[[小学校]]の同級生に俳優の[[北村和夫]]がいた。長兄は[[フィリピン]]で戦死。<BR>
[[1944年]]([[昭和]]19年)に[[東京高等師範学校]]附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])を卒業。附属中の同期には、[[星新一]]([[小説家]])、[[槌田満文]]([[武蔵野大学]][[名誉教授]])、[[大野公男]](元[[北海道情報大学]]学長)、[[児玉進]](映画監督)、[[黒澤洋]](元[[日本興業銀行]]会長)、[[星野英一]]([[東京大学]]名誉教授)などがいた。<BRbr>
徴兵を避けるため[[桐生高等工業学校|桐生工業専門学校]](現・[[群馬大学]]工学部)に入学、終戦後直ちに退学し、[[早稲田大学]][[第一文学部]]西洋史学科卒業。<bRbr>
[[早稲田大学]]では演劇部に所属し演劇活動を行っていたが、『[[醉いどれ天使]]』に感動し、演劇に見切りをつけ監督の[[黒澤明]]に付こうと思い決めた。しかし、黒澤のいた[[東宝]]はその時助監督募集をしていなかった。<BRbr>
[[1951年]](昭和26年)[[早稲田大学]][[第一文学部]]を卒業し、[[松竹大船撮影所]]に入社。欠員の出た松竹が初の助監督公募を行い2000人中8人という難関を突破しての合格だった。主に[[小津安二郎]]の助監督をつとめ、松竹大船助監督部の幹事にまでなったが、収入や仕事で不満を感じ、[[1954年]](昭和29年)に[[日活]]に移籍する。のちに「松竹では束縛だらけだったが、日活はまったくなかったから驚いた」と松竹と日活のギャップを語っている。<BRbr>
[[1957年]](昭和32年)の[[川島雄三]]監督『[[幕末太陽傳]]』や[[浦山桐郎]]監督の『[[キューポラのある街]]』の脚本も書いている。<BRbr>
[[1958年]]に『盗まれた欲情』で監督デビュー。同作では川島雄三との繋がりで[[黛敏郎]]が音楽を担当し、以後黛は『[[神々の深き欲望]]』まで、今村作品の音楽を担当した<ref>今村、2004年、p.97</ref><ref>香取、2004年、p.143</ref>。<BRbr>
[[1958年]]の『果しなき欲望』の頃からスタッフが固定化、今村組が形成されていった<ref>香取、2004年、p.151</ref>。<br>
[[1959年]]の『[[にあんちゃん]]』は今村の名を一般に知らしめた出世作で文部大臣賞も受賞したが、[[田坂具隆]]が日活をやめたための代役で本来やりたい企画ではなく、文部大臣賞の受賞については今村はそのような健全な映画を撮ったことを反省したという<ref>佐藤、1997年、pp.30、38</ref><ref>香取、2004年、p.159</ref>。<br>
[[1961年]]の『[[豚と軍艦]]』は、高い評価を得る一方、予算オーバーしたことと興行成績が良くなかったためしばらく日活から干されることになった作品である<ref>香取、2004年、p.171</ref>。また、本作の脚本を執筆中に小津安二郎と脚本家の[[野田高梧]]からこぞって「汝ら何を好んでウジ虫ばかり書く?(まともな人間を書け)」と言われて、両名に「このくそじじい!」と毒づきこれを契機に「俺は一生死ぬまでウジ虫ばかり描いてやる!」と固く決意したという。<br />
 
[[1963年]]の『[[にっぽん昆虫記]]』では[[山形県]]で俳優とスタッフによる合宿でのオールロケと同時録音に挑戦し<ref>香取、2004年、p.175</ref>、大胆なセックス描写が話題を呼び<ref name="佐藤75">佐藤、1997年、p.75</ref><ref>桑原稲敏『切られた猥褻 映倫カット史』読売新聞社、1993年、p.83</ref><ref>[[藤木TDC]]、[[松井修 (ライター)|松井修]]「肉体女優映画・成人映画の巨人 大蔵貢が残したピンクの遺産! ハダカ女優ブームに沸いた昭和30年代と大蔵映画」『別冊宝島240 性メディアの50年 欲望の戦後史ここに御開帳!』宝島社、1995年、p.66</ref>配給収入は3億5千万円と大ヒットした<ref>板持隆『日活映画 興亡の80年』社団法人日本映画テレビプロデューサー協会、1999年、p.69</ref>。<br>
『にっぽん昆虫記』の大ヒット後は、会社から却下されてお蔵入りしていた『[[赤い殺意]]』の企画を甦らせて[[1964年]]に公開。同作は今村が自分のベストと認めている作品である<ref name="佐藤75" /><ref>香取、2004年、p.189</ref>。この『赤い殺意』などで監督として世間に認められる。<br>
しかし『にっぽん昆虫記』『赤い殺意』で配役や予算、フィルム使用量で会社と衝突し、『赤い殺意』を最後に日活から独立し、[[1966年]]3月に自らが代表を務める独立プロの今村プロダクションを設立<ref>今村、2004年、p.127</ref>。以後、ここを拠点に映画製作をした。この時期の今村は[[柳田国男]]の[[民俗学]]に傾倒し、日本の古くからの農村に根付く俗信やルールをテーマとしていた<ref>今村、2004年、p.105</ref>。<br>
 
2年がかりの沖縄ロケをし、初のカラー作品となる『神々の深き欲望』を[[1968年]]に発表。同作は各種映画賞を総なめにしたが、長期ロケのために2000万円の借金を抱え、資金難のため、その後の10年間は主にドキュメンタリー作品を手掛けた、この空白期もあり同作は今村の前半期の総決算と位置づけられる作品でもある<ref>今村、2004年、pp.152-153</ref><ref>村松友視、2003年、p.159</ref>。
 
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[[1983年]]に東映との共同製作で『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』を発表。同作は[[カンヌ国際映画祭]]の最高賞([[パルム・ドール]])を受賞<ref name="zakzak20060531">{{cite news
|title = 「好きなことやったんで大往生」今村昌平監督逝く
|url = http://www.zakzak.co.jp/gei/2006_05/g2006053105.html
|publisher = [[夕刊フジ]]
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『黒い雨』の後に7年間沈黙し、[[1997年]]に『[[うなぎ (映画)|うなぎ]]』を発表し、2度目のカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞。同作は今村作品としては水準に達していないという評価があり、受賞は意外であるという反応だった。『楢山節考』では欠席していた今村は夫婦で同映画祭に出席したが、本当は気が進まずに授賞式の前に帰国した<ref>今村、2004年、p.195</ref><ref>香取、2004年、pp.454-456</ref>。
 
『うなぎ』の頃より糖尿病の悪化と加齢により立っているのがやっとの状態で気力も減退し、従来の粘りや執念も発揮できなくなっていたが<ref>香取、2004年、pp.455-457</ref>、その後も[[1998年]]に『[[カンゾー先生]]』、2001年に『[[赤い橋の下のぬるい水]]』を発表。 
 
[[2006年]](平成18年)[[5月30日]]午後3時49分、転移性肝[[腫瘍]]のため東京都渋谷区の病院で79歳で死去。遺作は『[[11&#x27;09&#x27;&#x27;01/セプテンバー11]]』中の短編。
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==