「アッシリア」の版間の差分
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紀元前5000年紀半ば以降になると南部メソポタミアで発生した[[ウバイド]]文化が北部メソポタミアにおいてもその全域に広がり、[[ニネヴェ (メソポタミア)|ニネヴェ]]などに大規模集落が形成されている。これは南部メソポタミアでの灌漑農業の拡大とそれによる人口増加、経済の発展に伴い、各種資源の需要が高まり、金属資源や木材や家畜類などの交易規模が増大した結果、概要にあるようなアッシリアの地理条件のために交易中継地として人々の移動が激しくなった影響で、南部メソポタミアの文化が北部メソポタミア全域にまで拡大したものと考えられる。その後の[[ウルク期]]を経て、南部メソポタミアとは一線を画す独自の地方文化が形成されて行く事となる。
[[紀元前3千年紀|紀元前3000年紀]]半ば頃({{仮リンク|初期王朝時代|en|
[[アッカド]]帝国の時代には既に都市国家として独自の政治体制が確立されていたと考えられる。アッカド帝国や[[ウル第三王朝]]の時代にはその覇権下に置かれ、建築事業などの一部が文字記録として残されるようになる。アッカド・ウル第三王朝の時代と前後して、都市アッシュルの神格化が進み、政治的一体性を持った地方としてのアッシリアと、アッシリア社会の原型が形成された。そして、紀元前2000年頃、ウル第三王朝の滅亡と前後してアッシリアが歴史に登場する古アッシリア王国時代へと入っていく事となる。
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|首都 = [[アッシュール]]
|religion = Mesopotamian religion
|元首等肩書 =
|元首等年代始1 = [[紀元前1365年|前1365年]]
|元首等年代終1 = [[紀元前1330年|前1330年]]
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またその国家は、本国たる'''アッシュルの地'''と周辺の征服地域は強く区別された。本国は、中アッシリア時代より拡大していたが、神格化された国土アッシュール神という宗教イデオロギーで結びついていた。各征服地がどのように統治されたのかについては地域差があり、また学者の間でも議論のある所である。バビロニアの扱いは別格であり、アッシリア王がバビロニア王を兼任する場合や、バビロニアに代理王を置く場合などがあった。これらを、高度に発達した官僚制度が支えていた。ティグラト・ピレセル3世の治世から[[アッシュールバニパル]]の治世までの100年あまりの間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。
この時代のアッシリア政治史における重要案件はバビロニア問題であった。ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとに[[エラム]]({{仮リンク|フンバンタラ朝|ru|Новоэламская династия}})の支援を受けたバビロニアが反乱を起こし、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王はほとんどいない。[[紀元前722年]]に[[シャルマネセル5世]]が[[イスラエル王国]]へ侵攻し占領したが、直後に死去。[[サルゴン2世]]は即位直後にバビロニアに離反され、{{仮リンク|ウラルトゥ・アッシリア戦争|en|Urartu-Assyria War
亡命政権が[[ハッラーン|ハラン]]に誕生し、[[アッシュール・ウバリト2世]]が即位、エジプト王[[ネコ2世]]と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するも[[紀元前7世紀|紀元前609年]]にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡した。だが、アッシリアに続く新バビロニアやメディア、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]はアッシリアの行政機構の多くを取り入れた。
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