「三遊亭圓楽 (5代目)」の版間の差分

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=== 『笑点』4代目司会者として ===
[[1982年]](昭和57年)[[12月8日]]に当時の司会であった[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]の急死に伴い、[[1983年]](昭和58年)[[1月9日]]から司会者として『笑点』に復帰した。この復帰はメンバーらの希望で実現たものだが、当人は2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたと語っていた。司会就任後、しばらくは様々な色の[[紋付]]を着ており、同年[[9月4日]]放送分より、紺の色紋付に定着した。
 
就任してからしばらくは、答えの合間にその博識を生かした[[都々逸]]をしばしば披露したり、40分時代の初期には落語に専念していた時代に学んだ知識を生かして「'''よろずガイダンス'''」というコーナーで落語にまつわる話を披露するなどしていた。しばしば台本は無視、林家こん平の回答に対して着物を脱がせたこともあり、「司会者が笑い過ぎ」といった理由で、当初は批判も少なくなかった<ref name="ennraku1" />。だがそれは従来と雰囲気を変えるために意図的に行ったことであり<ref name="ennraku1" />、徐々に出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていたころの司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組から{{Efn|桂歌丸は「三波さんは間の取り方がトリオのそれであった。圓楽さんは同じ落語家の『間』を持っていたためので、歴代司会者で一番やりやすかったですね。三波さんもやりやすかったですが、どうしても間の取り方がトリオのそれになってました。」と述べており<ref>ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』P.18-21</ref>、林家木久扇は「三波さんは自分がウケようとしましたね。こちらが面白い答えをいうと『何〜!』って場面を取っちゃうのが上手かったんですね」と回想している<ref>山田隆夫『山田クンとざぶとん』 [[双葉社]] ISBN 9784575304701 191ページ</ref>。}}、スピーディーにやり取りする中でメンバーのキャラクターにクローズアップし、司会者だけでなくメンバー全員を主役とするという新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し、次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。
 
面長な容姿から「[[馬]]」呼ばわりされたり、若竹の借金・小言が長い・本番中に居眠りなどとネタにされたり、回答者の家族の悪口(歌丸の妻・冨士子夫人など)や[[下ネタ]]を織り交ぜた回答をすると、爆笑しつつも容赦なく座布団を没収していた。
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圓楽の司会就任から1年後、それまでの[[松崎真]]に代わる新しい座布団運びとして[[山田隆夫]]が就任。これ以降、回答者だけでなく座布団運びも番組の流れに積極的に絡むようになった。山田はやり過ぎたり、自らを罵倒する回答をしたメンバー(主にこん平及び弟子のたい平)を座布団から突き飛ばしたり(時に蹴り飛ばしたり)することがあるが、これも圓楽の助言がきっかけで始められた<ref name="rikunabi">{{Cite web|url=http://next.rikunabi.com/journal/entry/20151120_1 |title=幸せと座布団を運び続けて31年!笑点・山田クンが語る「継続する先に見えるもの」 |publisher=リクナビNEXT |date=2015-11-20 |accessdate=2015-12-11 }}</ref>。山田罵倒ネタの際には、山田の判断に一任したり、彼を擁護する発言をすることも多かった。
 
圓楽は大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんど行わなかった{{Efn|それまで頻繁に行われていた大喜利の席替えも1992年の好楽・小遊三の入れ替えを最後に行われておらず、以降の新メンバーは前のメンバーが座っていた場所にそのまま入るケースが続いている。}}{{Efn|マンネリの打破やレクリエーションの一環として、メンバー全員が参加するロケ企画(ボウリング大会、山田隆夫の新居訪問、後述する自身の墓の墓参りなど)が行われていたのもこの時期である。}}。23年間司会を務めながら、その間に新加入した大喜利メンバーは[[三遊亭小遊三]]と[[林家たい平]]{{Efn|ただし、あくまで圓楽司会当時は休演した師匠・林家こん平の代演扱いだった。たい平がレギュラーメンバーに昇格したのは圓楽の勇退に伴い司会が歌丸に交代してからである。}}の2人だけ。[[1988年]](昭和63年)に弟子の[[三遊亭好楽]]が復帰してからは、たい平が加入するまでの16年間を同じメンバーで通した。また、マンネリの打破やレクリエーションの一環として、メンバー全員が参加するロケ企画(ボウリング大会、山田隆夫の新居訪問、後述する自身の墓の墓参りなど)が行われていたのもこの時期である。こん平が長期の休演を余儀なくされた際も、圓楽は「代わりに変な芸人は入れるな。入れるなら、山田くんを大喜利に入れればいい」と語ったという<ref name="rikunabi" />。
 
司会者歴は23年は歴代で最長だったが、[[2001年]](平成13年)[[2月11日]]の放送では、本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった{{Efn|ちなみにこの7年後に後任司会者の歌丸も同様の失敗をやってしまい、2008年(平成20年)[[2月10日]]放送の時は三遊亭楽太郎(現:[[三遊亭圓楽 (6代目)|6代目三遊亭圓楽]])に「あれをね、うちの師匠がやった後、[[脳梗塞|ああなった]]んですよ」とネタにされた。また、現司会者の[[春風亭昇太]]も[[2017年]][[6月25日]]放送分で同様のミスを犯している。}}。
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追悼特番では笑点だけでなく落語の寄席での失敗、弟子一同を集めて小言を垂れる際に[[羊羹]]を[[バナナ]]のごとく丸ごと一本頬張りながら(おかげでまともに小言を聞いていた弟子は一人もいなかった)というほどの甘い物好きぶりや寒がりで厚着をしたことなどが語られ、湿っぽさを感じさせない和やかで明るい雰囲気で進められた。
 
そして司会引退および逝去以降も、座布団10枚の賞品のネタ{{Efn|「耳をすませば」のキーワードで、五代目圓楽の豪快な笑い声が収められた笑い袋が賞品にされた(獲得したのは[[春風亭昇太]])。}}にされたり、主に楽太郎(六代目円楽)から歌丸罵倒ネタの際に(物真似されるなどして)引き合いに出されていたりしており、今なお「笑点といえば、圓楽」のイメージは生き続けている。
 
=== 現役引退・晩年 ===