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== 概説 ==
[[江戸]]に生まれる。家が[[古武道|武芸]]を重んじる家だったため、幼少から[[神陰流]]や[[北辰一刀流]]の剣術、樫原流[[槍術]]<ref>自得院流(忍心流)槍術の勘違いと思われる。[[泉秀樹]]『幕末維新なるほど人物事典: 100人のエピソードで激動の時代がよくわかる』(2003年 PHP文庫 ISBN 978-4-569-66020-2)63項 に見られるが、この書籍は全体に典拠を示さない読み物なので信頼性は低い。</ref>、[[北辰一刀流]]を学び、武術に天賦の才能を示す。[[浅利義明]]([[中西派一刀流]])門下の剣客であり、[[明治維新]]後[[一刀正伝無刀流]](無刀流)の開祖となる。
 
幕臣として、[[清河八郎]]とともに[[浪士組]]を結成。[[江戸開城|江戸無血開城]]を決定した[[勝海舟]]と[[西郷隆盛]]の会談に先立ち、[[官軍]]の駐留する[[駿府]](現在の[[静岡市]])に辿り着き、単身で西郷と面会する。
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== 生涯 ==
=== 誕生 ===
[[天保]]7年([[1836年]])6月10日、[[江戸]][[本所 (墨田区)|本所]]に[[蔵奉行]]・木呂子村<ref>きろこむら、現[[埼玉県]][[比企郡]][[
小川町]]木呂子。</ref>の[[地方知行|知行主]]である小野朝右衛門高福<ref>小野高福(たかよし 1821 - 1852年)通称朝右衛門(ちょうえもん)は、飛騨郡代(『真宗山元派本山證誠寺史』p.81 によれば 21代 1845 - 1852年)、禄六百石の旗本だった。</ref>の四男<ref>Web 検索すると五男説が散見されるが、[[勝部真長]]『山岡鉄舟の武士道』1999年 [[角川ソフィア文庫]] p.20(初出は1971年『武士道―文武両道の思想』角川選書、未確認) に'''五男'''とあるのが誤転載の源流と思われる。</ref>第五子<ref>{{Cite book |和書 |last=孫三 |first=佐倉 |date=1893-5-16 |title=山岡鉄舟伝 |publisher=普及舎 |page=1 |url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782099 }}
</ref>として生まれる。母は塚原磯(常陸国[[鹿島神宮]]神職・塚原石見の二女。先祖に[[塚原卜伝]])。
 
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[[嘉永]]5年([[1852年]])、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により[[安政]]2年([[1855年]])に[[講武所]]に入り、[[千葉周作]]らに剣術、山岡静山<ref>山岡静山 やまおかせいざん 1829 - 1855年、名は正視 まさみ、字は子厳、通称は紀一郎。幕臣、[[高橋泥舟]]の兄。槍術家として著名。</ref>に忍心流槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎([[高橋泥舟]])らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し山岡家の[[婿養子]]となる。安政3年([[1856年]])、剣道の技倆抜群により、講武所の世話役となる。安政4年([[1857年]])、[[清河八郎]]ら15人と[[尊王攘夷]]を標榜する「虎尾の会」を結成。[[文久]]2年([[1862年]])、[[江戸幕府]]により[[浪士組]]が結成され、親友の[[中條金之助]]とともに取締役となる。文久3年([[1863年]])、[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家茂]]の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は[[謹慎]]処分。
 
この頃、[[中西派一刀流]]の[[浅利義明]](浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。この頃から剣への求道が一段と厳しくなる.
父の勧めもあって、17歳の頃から禅の修行も始め、長徳寺願翁、竜沢寺星定、相国寺独園、天竜寺滴水、円覚寺洪川に参じ、後年は、滴水和尚から印可を与えられた。
 
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2月11日の[[江戸城]]重臣会議において、[[徳川慶喜]]は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野[[寛永寺]]に籠り謹慎していた。海舟はこのような状況を伝えるため、[[東征大総督|征討大総督府]][[参謀]]の西郷隆盛に書を送ろうとし、[[高橋泥舟|高橋精三(泥舟)]]を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。
 
このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の[[関口隆吉|関口艮輔]]に[[大小 (日本刀) |大小]]を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を「[[朝敵]]徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという<ref>鉄舟自身が書いた記録「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」によると、後日、鉄舟は大総督府の参謀から呼び出された。鉄舟が出頭すると、[[村田新八]]が出てきて言った。「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎([[桐野利秋]])とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは[[江戸っ子]]だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別かれた、という。</ref>。
 
3月9日、[[益満休之助]]に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、[[朝廷]]に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、
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=== 明治維新後 ===
[[ファイル:YamaokaTesshu20121006.jpg|thumb|right|200px|山岡鉄舟の墓([[全生庵]])]]
[[明治維新]]後は、[[徳川家達]]に従い、駿府に下る。6月、[[静岡藩]]藩政補翼となり、[[清水次郎長]]と意気投合、「壮士之墓」を揮毫して与えた。また、幕臣の救済事業である[[牧之原台地]]開墾の責任者である中條金之助に[[チャノキ|]]の生産を助言する。
明治4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]に伴い新政府に出仕。[[静岡県庁|静岡県]]権大参事、[[茨城県庁|茨城県]]参事、[[伊万里県]][[権令]]を歴任した。
 
西郷のたっての依頼により、明治5年([[1872年]])に宮中に出仕し、10年間の約束で[[侍従]]として[[明治天皇]]に仕える。侍従時代、深酒をして[[相撲]]をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年([[1873年]])に[[皇居]]仮宮殿が炎上した際、[[淀橋]]の自宅からいち早く駆けつけたりするなど、剛直なエピソードが知られている。[[宮内省|宮内]][[大丞]]、宮内[[少輔]]を歴任した。明治15年([[1882年]])、西郷との約束どおり致仕。明治20年([[1887年]])[[5月24日]]、功績により[[子爵]]に叙される。
 
明治16年([[1883年]])、維新に殉じた人々の菩提を弔うため[[東京都]][[台東区]][[谷中 (台東区)|谷中]]に普門山[[全生庵]]を建立した。
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明治18年([[1885年]])には、[[小野派一刀流|一刀流小野宗家]]第9代の小野業雄からも道統と[[瓶割刀]]・[[朱引太刀]]・[[卍]]の印を継承し、[[一刀正伝無刀流]]を開いた。
 
明治21年([[1888年]])7月19日9時15分、[[皇居]]に向かって[[結跏趺坐]]のまま絶命。死因は[[胃癌]]であった。葬儀は22日に行われたが豪雨であった。前もって明治天皇の内意があったので、四谷の自邸を出た葬列は、皇居前で10分ほど止まった。明治天皇は、高殿から目送された。全生庵での会葬者は5千人にも上った。
 
この日、門人村上俊五郎は、[[殉死]]の恐れがあるというので[[四谷警察署]]に保護された。また門人栗津清秀も殉死しようとしたが、全生庵の裏山で発見されて止められた。門人鈴木雄蔵は、葬儀に出たまま家に帰らず、3年間も墓前に留まった。9月15日、門人三神文也が墓前で割腹殉死。同18日、鉄舟の爺や内田三郎兵衛が墓前で死んでいた。「鉄舟のいない世の中は、生きるに値しない。」と思わせるほどの、鉄舟の死だった。享年53。[[戒名]]「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。没後に勲二等[[旭日重光章]]を追贈された<ref>[{{NDLDC|2944755}}官報 明治21年7月20日付「叙任及辞令」] 国立国会図書館デジタル官報</ref>。
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*その人間性は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。
* 致仕後、[[勲三等]]に叙せられたが、拒否している。[[勲章 (日本)|勲章]]を持参した[[井上馨]]に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切った<ref>[[栗原俊雄]]『勲章 知られざる素顔』(岩波新書、2011年 ISBN 978-4004313069 )、171頁。</ref>。
* 実家の知行地であった埼玉県[[小川町]]の[[割烹]]旅館「二葉」には、鉄舟が好んだ料理「忠七めし」が伝わっている。米飯に[[海苔]]、[[薬味]][[ネギ]]、[[ワサビ]]、[[ユズ]]などを散らして、[[カツオ]][[出汁]]をかける。二葉主人の八木忠七が、山岡から「料理に禅味を盛れ」と注文され、山岡が得意とした剣をワサビ、禅を海苔、書をユズで表現したという。二葉の看板は鉄舟の揮毫による<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180305/ddl/k13/100/005000c 【ぐるっと首都圏 食べるつながる】埼玉・小川町/忠七めし「日本五大名飯」味わって]『毎日新聞』2018年3月5日</ref>。
* 明治2年(1869年)、[[明治天皇]]の京都[[行幸]]の際、明治天皇から手土産の相談を受けた。そして[[山本海苔店]]二代目山本德治郎に相談したことで、[[味付け海苔]]が創案された。山本海苔店の商品のいくつかは鉄舟の揮毫である。
* [[木村屋總本店|木村屋]]の[[あんパン]]を好んでおり、毎日のように食べていたともいわれる。また木村屋の看板も鉄舟の揮毫によるものである。
 
== 山岡鉄舟を題材とした作品 ==