「メッカ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Ffosonds (会話 | 投稿記録)
3個の出典を修正し、0個にリンク切れのタグを追加しました。 #IABot (v1.6.5)
89行目:
メッカの中心部は山々にはさまれた狭い回廊に位置しており、しばしばHollow of Meccaと呼ばれる。市の面積にはAl Taneem谷、Bakkah谷、およびAbqar谷の面積を含む.<ref name = EIModern>"Makka – The Modern City", ''Encyclopaedia of Islam''</ref><ref name = EIE>"Makka – The pre-Islamic and early Islamic periods", ''Encyclopaedia of Islam''</ref>。近年の人口増加により、住宅地は近隣の山岳地帯にも広がっている。街の最も低いところにメッカでももっとも神聖な[[マスジド・ハラーム]]があり、ここが街の中心となっている。この付近には禁域(ハラーム)と通称される旧市街が広がっている。メインストリートであるAl-Mudda'ah通りとスークはモスクの北に広がり、As-Sūg Assaghīr通りは南へと延びる。サウジアラビア統治下になってから中央の大モスクは大幅に拡張され、その付近にあった数百件の家々は現在広い大通りや広場となっている。メッカの伝統的な家は地元の石で作られ、一般的に2階から3階建てである。メッカの今日の総面積は1,200km<sup>2</sup>以上となっている<ref>{{cite web|url=http://www.holymakkah.gov.sa/ |title=Mecca Municipality |publisher=Holymakkah.gov.sa |date= |accessdate=2010-04-06}}</ref>。
 
近年の世界の一体化にともなう交通事情の改善などによって巡礼客は増加の一途をたどっており、それを一手に引き受けるメッカも急速な成長が続いている。マスジド・ハラームの向かいには、サウジアラビア屈指の高層ビル群である[[アブラージュ・アル・ベイト・タワーズ]]が建設され、2012年に開業した<ref>{{cite news|url=http://thestar.com.my/lifestyle/story.asp?file=/2010/12/4/lifetravel/7478279&sec=lifetravel|title=Going mega in Mecca|author=Kee Hua Chee|work=|publisher=[[The Star (Malaysia)]]|date=2010-12-04|accessdate=2010-12-27}}{{リンク切れ|datearchiveurl=2017https://web.archive.org/web/20101206063924/http://thestar.com.my/lifestyle/story.asp?file=%2F2010%2F12%2F4%2Flifetravel%2F7478279&sec=lifetravel|archivedate=2010912 6日|botdeadlinkdate=InternetArchiveBot 2018年3月}}</ref>。そのうちのホテル棟はサウジアラビアで最も高い601mで、[[ブルジュ・ハリファ|ブルジュ・ハリーファ]]に次いで世界で2番目に高いビルである。しかし、この場所にはかつては[[オスマン帝国]]時代に立てられ歴史的な価値の高い[[アジャド要塞]]が建っており、[[トルコ]]やサウジ国内などから強い反対の声が上がっていたが、ビル建設にともない取り壊されてしまった<ref>[http://www.wsws.org/articles/2002/jan2002/fort-j28.shtml Saudi government demolishes historic Ottoman castle]</ref><ref>[http://www.independent.co.uk/news/world/middle-east/shame-of-the-house-of-saud-shadows-over-mecca-474736.html ‘Shame of the House of Saud: Shadows over Mecca’], The Independent, 19 April 2006</ref> 。この事例に象徴されるように、サウジアラビア政府は[[偶像崇拝]]につながりかねないとして古い遺跡や建物、ことに歴史的・宗教的な建物に敵対的な態度を示すことが多く、結果としてサウジ支配下に入ってから古い建物のほとんどは取り壊された。[[1985年]]以来、メッカの歴史的建造物の95%以上、1000年以上の歴史を持つもののほとんどが破壊されたと推定される<ref name="independent.co.uk">[http://www.independent.co.uk/news/world/middle-east/the-destruction-of-mecca-saudi-hardliners-are-wiping-out-their-own-heritage-501647.html 'The destruction of Mecca: Saudi hardliners are wiping out their own heritage'], The Independent, 6 August 2005, retrieved 17 Jan. 2011</ref><ref name="independent">{{cite news| url=http://www.independent.co.uk/news/world/middle-east/mecca-for-the-rich-islams-holiest-site-turning-into-vegas-2360114.html | location=London | work=The Independent | first=Jerome | last=Taylor | date=2011-09-24 | title=Mecca for the rich: Islam's holiest site 'turning into Vegas'}}</ref>。
 
メッカ中心部の北東約5kmには、ムハンマドに対して神による最初の啓示が下された[[ヒラー山]]がある。ヒラー山には多くの巡礼者が訪れるが、[[スンナ派]]のなかでも厳格な[[ワッハーブ派]]の流れを汲むサウジアラビア政府は偶像崇拝につながりかねないとして、「この山は本来は神聖視されるべきものではない」という断りを登山口に設けている。
236行目:
=== イスラーム以前 ===
[[ファイル:Mecca-1850.jpg|thumb|250px|1850年頃のメッカ全景図]]
メッカの町は古くより存在し、[[2世紀]]に書かれた[[クラウディオス・プトレマイオス]]の「地理学」にはマコラバの名ですでに記載がある<ref>佐藤次高:編『新版世界各国史8 西アジア史I』山川出版社、2002年3月 pp.129-130</ref>。このマコラバという名称の由来は神殿を意味するミクラーブという語であるとされており、このころから既にメッカは[[カアバ神殿]]の置かれた聖域であったと考えられている<ref name=kosugi>{{Cite book|和書|author=小杉泰|title=『クルアーン』語りかけるイスラーム|year=2009|pages=115-118|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-028297-0}}</ref>。メッカはジュルフム族が聖地の守護者として支配していたが、4世紀後半には[[イエメン]]から移住してきたフザーア族がメッカを侵攻して支配権を奪取した。5世紀末には、メッカ周辺で遊牧生活を行っていた[[クライシュ族]]のクサイイがフザーハ族首長の娘婿となり、フザーハ族に代わりクライシュ族がメッカの支配権を握るようになった<ref name=takahashi>{{Cite web|url=http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/saudi_general/tribes_of_peninsulal.html|title=「沙漠の半島」の多様な部族|author=高橋俊二|publisher=財団法人中東協力センター|date=2013-05-11|accessdate=2014-03-16}}</ref><ref name=ohta>{{Cite web|url=http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/archive/hsjf/doc/preoota05.html|title=イスラームの誕生と拡大|author=太田敬子|publisher=北海道大学大学院文学研究科|accessdate=2014-03-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140316135421/http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/archive/hsjf/doc/preoota05.html|archivedate=2014年3月16日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。その後クライシュ族は、インド洋航路によってアジアからイエメンへと運ばれる香辛料などをシリア、地中海地方へと運ぶ交易路を開拓して大規模な[[キャラバン]]による遠隔地交易を始め、隊商路の安全を保つためにアラビア半島各地の諸勢力との間に盟約を結んでいき、メッカを中心とした緩やかな部族連合が形成されていった<ref name=kosugi/><ref name=ohta/>。ムハンマドが生まれた[[570年]]頃にはおよそ一万人の定住者人口を持ち、まだ中東の都市のなかでは小規模であったが、商業都市として、また広域信仰圏の中心として急速に発展しつつあった<ref> {{Cite book|和書
|author = 後藤明
|authorlink = 後藤明 (歴史学者)
333行目:
*[http://www.saudinf.com/main/a83.htm Saudi Information Resource – Holy Mecca]
*[http://www.life.com/image/first/in-gallery/52431/mecca-then-and-now Mecca Then and Now] - slideshow by ''Life magazine''
*[https://web.archive.org/web/20081201031904/http://etext.library.adelaide.edu.au/b/burton/richard/b97p/chapter27.html Personal Narrative of a Pilgrimage to Al Madinah and Meccah, by Richard Burton]
*[[ウィキトラベル]]旅行ガイド - [http://wikitravel.org/ja/メッカ メッカ]
*{{Googlemap|メッカ}}