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'''ユーロネクスト・パリ'''({{lang-fr|Euronext Paris}})は、[[フランス]]・[[パリ]]近郊・[[ラ・デファンス]]地区の[[クールブヴォア]]にある、旧パリ[[証券取引所]]<ref>{{cite web|url=https://www.euronext.com/fr/actualite/euronext-paris-installe-a-la-defense|title=Euronext Paris s’installe à La Défense|publisher=ユーロネクスト|language=フランス語|date=2015-06-19|accessdate=2017-12-01}}</ref>。戦後から[[投資信託]]市場として栄えてきたが、今は[[ユーロネクスト]]が運営している。通常の立会時間は土曜・日曜・取引所の定める休みを除き、平日午前9時から午後5時30分まで(日本時間:16:00 - 23:30)。
[[File:La Defense dsc07142.jpg|thumb|300px|ラ・デファンス。ユーロネクスト・パリは、左側の高層ビルの背後に所在する]]
[[File:Palais Brongniart Paris.jpg|thumb|200px|旧パリ証券取引所(パレ・ブロンニャール)]]
'''ユーロネクスト・パリ'''({{lang-fr|Euronext Paris}})は、[[フランス]]・[[パリ]]近郊・[[ラ・デファンス]]地区の[[クールブヴォア]]にある[[証券取引所]]。[[ユーロネクスト]]が運営している。
 
== 沿革 ==
[[File:Palais Brongniart Paris.jpg|thumb|200px|旧パリ証券取引所のパレ・ブロンニャール([[:fr:Palais Brongniart|Palais Brongniart]])。{{仮リンク|アレクサンドル=テオドール・ブロンニャール|en|Alexandre-Théodore Brongniart}}が設計した。[[証券市場]]に関する歴史的資料を展示した資料館等が入館している。]]
18世紀、パリに証券取引所が成立。当初は、一銀行が運営していたが、事業の運営母体が変遷を受けながら規模を拡大しつつ、パリ[[2区 (パリ)|2区]]へ移転した。[[ランドマーク]]となっていた[[コリント式]]列柱の外観を持つ建物は、[[1826年]]に完成したものであり、20世紀初頭に拡張工事が行われた。[[2000年]]9月、アムステルダム証券取引所・ブリュッセル証券取引所との経営統合により、[[ユーロネクスト]]が設立され、同社の運営となって以降、ユーロネクスト・パリの名称で呼ばれるようになった。
[[ジョン・ロー]]のミシシッピ会社が破綻し解体されてゆく途上、1726年パリのホテル・ヌーベル([[:fr:Hôtel de Nevers (rue de Richelieu)|Hôtel de Nevers]])に証券取引所が成立した([[:fr:Bourse de Paris|Bourse de Paris]])。当初は一銀行が運営していたが、事業の運営母体が変遷を受けながら規模を拡大していった。1808年[[ナポレオン]]がパリ[[2区 (パリ)|2区]]のパレ・ブロンニャールへ移転した。[[ランドマーク]]となっていた[[コリント式]]列柱の外観を持つ建物は、[[イングランド銀行]]救済のあと1826年に完成したものである。
 
1869年の統計によれば、当時のパリ証券取引所で取引された有価証券の額は308億6900万フランに達したが、そのうち100億フランが外国証券であったといわれる。[[オーストリア=ハンガリー帝国]]成立前から同地域に対する投資が盛んに行われていたほか、[[ラテン通貨同盟]]の成立過程では[[銀本位制]]が主張されるほど極東との貿易も進展していた。
取引所の場所は、パリ証券取引所時代からは移転しており、現在はパリ市内ではなく、ラ・デファンス地区にある<ref>{{cite web|url=https://www.euronext.com/fr/actualite/euronext-paris-installe-a-la-defense|title=Euronext Paris s’installe à La Défense|publisher=ユーロネクスト|language=フランス語|date=2015-06-19|accessdate=2017-12-01}}</ref>。一方、パリ2区の旧パリ証券取引所の建物は、{{lang|fr|Palais Brongniart}}(パレ・ブロンニャール)と呼ばれ、[[証券市場]]に関する歴史的資料を展示した資料館等が入館している。
 
20世紀初頭に拡張工事が行われた。これにはエピソードが存在する。1905年3月、パリ証券取引所理事長のベルヌイユが[[日露戦争]]中に[[外債]]交渉のため訪れていた貴族院議員[[高橋是清]]に提案した。それは[[ポーツマス条約|戦後処理]]に関するものであった。<ref name=rohutu>[[有沢広巳]]監修 『日本証券史 1』 日本経済新聞社 1995年 77頁</ref>
 
[[露仏同盟|フランスはロシア公債に巨額の投資をしている]]ので、戦争の行方を憂慮している。もし日本が無賠償で講和するなら、ロシアが応ずるようにフランスは仲介しよう。しかし賠償なしでは日本の財政は苦しいだろうから、戦後5億から7億円の日本公債のためにパリ金融市場を開放する。<ref name=rohutu />
 
そして1913年4月[[ロスチャイルド]]の引受で2億フランの外債が実際に発行された。この処理は鉄道会計法によった。
 
1941年6月18日、[[ヴィシー政権]]下においてパリ証券取引所は[[ユーロクリア|CCDVT]]を設立し、民間資産を管理した。
 
1980年代にフランス版[[ビッグバン (金融市場)|金融ビッグバン]]が実施された。
 
[[2000年]]9月、アムステルダム証券取引所・ブリュッセル証券取引所との経営統合により、[[ユーロネクスト]]が設立された。パリ証券取引所は同社の運営となって以降、ユーロネクスト・パリの名称で呼ばれるようになった。
 
== 相場 ==
[[CAC 40]]は、ユーロネクスト・パリで取引されるフランスのプライム市場の主要40企業で構成する[[時価総額加重平均型]]の株価指数である。他に、CAC 40採用銘柄に次ぐ20の企業からなる[[CAC Next 20]]、中型株指数の{{lang|fr|CAC Mid 60}}、小型株指数の{{lang|fr|CAC Small}}、全株指数の{{lang|fr|CAC All-Share Index}}などがある。
 
== 立会時間 ==
通常の立会時間は土曜・日曜・取引所の定める休みを除き、平日午前9時から午後5時30分まで(日本時間:16:00 - 23:30)。
 
== 所在地 ==
[[File:La Defense dsc07142.jpg|thumb|300px|[[ラ・デファンス]]。ユーロネクスト・パリは、左側の高層ビルの背後に所在する]]
*住所:14 place des reflets 92054 Paris la défense cedex
;アクセス
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== 出典 ==
<references/>
 
== 関連項目 ==
*{{仮リンク|アレクサンドル=テオドール・ブロンニャール|en|Alexandre-Théodore Brongniart}}:旧パリ証券取引所を設計した建築家
 
== 外部リンク ==