「やしきたかじん」の版間の差分

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前述の秋元のコメントの通り、たかじんの歌詞へのこだわりが強く、かつて多くたかじんの曲の作詞・作曲を手がけた鹿紋太郎が新曲作りに取り組む際には、鹿がたかじんの自宅に泊り込んで半月程度の合宿をおこなったという。代表的な大阪の曲として知られている『悲しい色やね』の作詞家である[[康珍化]]に依頼して作ってもらった『心斎橋に星が降る』に対して、「心斎橋はアーケードあるから星降らん!!」(康自身は静岡の出身で大阪のことは詳しくない)と自身の曲として歌うことを断っている<ref>1993年4月3日放送の『たかじんnoばぁ〜』でたかじん本人が語っている。</ref>。そのため、この曲は[[大上留利子]]の持ち歌となって世に出てしまい前述の秋元とのエピソードと同じ状況に至ってしまった。このことから、作家泣かせとして業界で有名である。
 
1981年には、[[谷村新司]]が作詞・作曲し、たかじんが歌った[[アニメ映画]]『機動戦士ガンダム』(劇場版3部作の第1作目)の主題歌『[[砂の十字架]]』が13万枚<ref name=muhataka>『[[ムハハnoたかじん]]1時間スペシャル』2007年4月6日放送</ref> のヒットとなるが、本人にとっては生涯最大の汚点だという。これには数々の事情があり、当時たかじんを担当していた[[ディレクター]]が[[キングレコード]]の部長に涙ながらに土下座をして、長い間鳴かず飛ばずだったたかじんにレコードを出させて下さいと直訴。その結果キングレコードは条件として、たかじんにガンダムの主題歌を歌うように指示、たかじんも歌詞に「[[ガンダム (架空の兵器)|ガンダム]]」という固有名詞がないことを条件に、(土下座したディレクターのこともあり)渋々承諾する。しかし、歌詞が気に入らなかったことと、ジャケットに自分の写真でなく、(同作品の主人公の)「[[アムロ・レイ]]」のイラストが描かれていた事にたかじんがクレームをつけて発売は延期となるが、結局そのまま発売されてしまう。このように自分の意向が蔑ろにされ、全てが事後承諾で制作された経緯がある作品である上に、無理矢理歌わされた曲が結果的に大ヒットしたため、「これまた人生の汚点だ」として番組などで嘆いた。またその後長い間、機動戦士ガンダムを観る事すら拒んだ。しかし後年になり[[岡田斗司夫]]から「今、歌えば逆に新鮮かも」との提案に、少し色気を出していた。
 
1982年、[[大阪駅前ビル|大阪駅前第二ビル]]の一角に[[マネージャー]]であった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。その後、1983年に[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]に移籍して『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『[[あんた]]』が上昇気流のきっかけとなる。1986年には『[[やっぱ好きやねん]]』が関西で注目を集めヒット。さらにこれが「大阪の歌手」として人気を得るきっかけとなり、1987年には『[[ICHIZU]]』が関西で大ヒットした。その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『[[なめとんか]]』がヒット、大阪色を前面に出した[[バラード]]シンガーとして根付いていくことになる(『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎と出会って以降、ビクター在籍中二人三脚で楽曲を製作し現在の歌い手たかじんのスタイルを築くこととなった)。本人曰く「歌手一本で食えるようになるまで20年はかかった」という。