削除された内容 追加された内容
m 表記ガイドに従い仮名書きへ
181行目:
このように、最近、各地域に残された[[古文書|家文書]]の研究が進み、厳しい制限のもとに雑穀を中心とした食生活を強いられた貧しい農民像が必ずしも実態を示すものではないことがわかってきた<ref>江原 絢子 他 『日本食物史』 吉川弘文館, 2009年, ISBN 978-4-642-08023-1, 188-190頁</ref>。戦後の学校教育などにより「近世の百姓は米を作りながら米を食べられなかった」という「哀れむべき農民像」が半ば常識となっていることについては、これは為政者側が望んだ農民像であり、実際の農民側の記録を分析したところ近世の農民は、1日に4合程度の米を[[麦飯]]あるいは雑穀などと[[かて飯]]や[[雑炊]]にした食事を日常的に摂っていたという。必要な栄養を摂取することによりそれなりの食糧生産ができるわけで、それがかて飯や雑炊であったにしろ食べずに米を作っていた筈はないのである<ref>有薗正一郎『近世庶民の日常食:百姓は米を食べられなかったか』 海青社、2007年。ISBN 9784860992316、第2章</ref>。
 
[[戦前]]は米も通常の物資と同じく[[市場経済]]に基づき取引されており、相場商品・[[投機]]の対象として流通に不安を来すこともあり、しばしば社会問題となった([[米騒動]]、特に[[1918年米騒動]]参照)。[[太平洋戦争]]開戦に向けての[[戦時体制]]整備の一環として、[[1939年]](昭和14年)4月に[[米穀配給統制法]]が交付され、米の流通が政府により管理されるようになった。なお、同年9月には戦時の物資不足に鑑み[[興亜奉公日]]が設定され、[[日の丸弁当]]が奨励されたものの白米は禁止されず、この時点ではまだ[[節米運動|米不足]]は酷くはなかった。だが12月には厳しさを増し[[米穀搗精等制限令]]が出され、七分搗き以上の白米を流通に付すことは禁止、[[1940年]](昭和15年)の[[正月]]は[[餅|お餅]]すら白米は許されなかった。米不足は深刻となり、この年から中国や東南アジアからの輸入米(所謂(いわゆる)[[インディカ米|外米]])を国産米に混ぜて販売することが義務付けられた。更に、[[真珠湾攻撃|日米開戦]]の2ヶ月後の[[1942年]](昭和17年)2月には[[食糧管理法]]が制定され[[食糧管理制度]]が確立、米の流通は完全に政府が掌握するようになった<ref name="nih" />。米だけでなく、[[魚介類]]や野菜・[[果物]]も[[米穀配給通帳|配給制]]になり、国民の栄養状態は極度に悪化していった。こうした食糧難に対して、江戸時代の[[かてもの]]の研究に帰って、食用[[野草]]や[[昆虫食]]など[[非常食]]の工夫が盛んに試みられた<ref name="was" />。一方米食の習慣がなかった地域や家庭では、配給制になったことで米を食べる機会を得て、そのことが戦後の食生活の変革の一因となったとする指摘もある<ref name="nih">江原 絢子 他 『日本食物史』 吉川弘文館, 2009年, ISBN 978-4-642-08023-1, 265-284頁</ref>。
 
[[1945年]](昭和20年)に[[第二次世界大戦]]は終結、戦後の食糧難は深刻を極めたが、米は引き続き食糧管理法による政府の固定価格での買い上げだったため[[闇米]]が横行、闇米を拒否した[[東京地方裁判所|東京地裁]]の[[判事]][[山口良忠]]が[[餓死#日本における餓死|餓死]]するという事件も起きている<ref name="was" />。米の生産拡大のための基盤整備事業が国内各地で行われ、[[肥料]]の投入や[[農業機械]]の導入などによる生産技術の向上から生産量が増加したものの、少なくとも昭和30年代([[1955年]]-[[1964年]])までは、大半の日本人が米飯を常食とすることは出来なかった<ref name="shi">新谷 尚紀 他 『民俗小事典 食』 吉川弘文館、2013年、ISBN 978-4-642-08087-3、26-28頁</ref>。そのような中で、[[ガリオア資金|ガリオア]]・[[エロア資金|エロア]]の資金援助で[[小麦粉|メリケン粉]]が大量に[[輸入]]され、アメリカの[[小麦]]戦略により、[[日本の学校給食|学校給食]]はメリケン粉を使った[[パン]]が供され、[[1952年]](昭和27年)には[[栄養改善法]]が施行され[[慶應義塾大学医学部]]教授の[[木々高太郎|林髞]]の著した『頭脳』([[光文社]]、[[1958年]])が評判となり、「米を食うと馬鹿になる」という説が流布され、[[頭脳パン]]なるものが出現するなどし、日本人の食事の欧風化が進行した<ref name="ame" />。
191行目:
供給においても、[[1983年]](昭和58年)の不作時には、政府が放出しようとした[[1978年]](昭和53年)度産の超古米に規定以上の[[臭素]]が検出され安全性に問題があるとされたため、翌[[1984年]](昭和59年)に[[大韓民国|韓国]]から米15万トンの緊急輸入が行われたり、1993年(平成5年)の全国的な米の不作による[[1993年米騒動|平成の米騒動]]においては、[[タイ王国|タイ]]などから米の緊急輸入が行われるなどした。なお、米の消費量は、ピークの[[1962年]](昭和37年)には、日本人一人あたり年間118.3キログラム消費していたものが、その後一本調子で減少 [[1990年代]]後半には、ひと頃の半分の60キログラム台に落ち込んだ。家計支出に占める米類の支払いの割合は、10%強だったものが 1.1 - 1.3% と {{分数|1|10}} になり、米の地位低下が甚だしい<ref>藤岡 幹恭 他 『農業と食料のしくみ』 日本実業出版社、2007年、ISBN 978-4-534-04286-6、126頁</ref>。
 
一方で、1993年(平成5年)[[ウルグアイ・ラウンド]]農業合意により、米の義務的な輸入([[ミニマム・アクセス]])を課せられるようになり、食糧管理制度は本格的な見直しを迫られた。[[1995年]](平成7年)、[[主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律]](所謂(いわゆる)食糧法)が施行され、これに伴い食糧管理法は廃止となり、政府の管理が緩められた。水稲の作付け面積と生産量に関しては、その後も減少し、1995年(平成7年)には作付け面積 211万ヘクタール、生産量 1072万トンに、[[2000年]](平成12年)以降は、作付け面積 170万ヘクタール、生産量 900万トン程度となり、作付け面積は半減、生産量は60%程度を推移している。また、食糧法は、[[2004年]](平成16年)に大幅に改正され、さらに政府の関与度を減らしている。
 
=== 中国 ===