「伊藤宗印 (8代)」の版間の差分
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'''八代伊藤宗印'''(はちだいいとうそういん、[[1826年]]([[文政]]9年[[7月 (旧暦)|7月]]) - [[1893年]]([[明治]]26年)[[1月6日]])は、[[江戸時代]]の[[将棋指し]]。'''[[名人 (将棋)|十一世名人]]'''。将棋三家の一家[[伊藤家]]当主。最後の[[家元]]
実子に伊藤印嘉(早世)。弟子に[[小菅剣之助]]名誉名人、[[関根金次郎]]十三世名人がいる。
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八代宗印は初名は上野房次郎といい、[[大橋本家]]の十一代大橋宗桂の弟子の一人であったが、後に[[伊藤家]]の養子となり伊藤宗印を名乗るようになる。[[天野宗歩]]が死去すると、次期名人候補として期待を集めるようになった。
[[明治維新]]の頃には、家元制度は家禄を失い有名無実と化してしまった。八代宗印は高齢の十一代宗桂に代わって将棋界の中心となり、[[1869年]](明治2年)には[[大橋分家]]の当主
宗印の名人襲位にあたって、若手の有望株である[[松本竹次郎]]に角落ち(宗印が上手)で指し分け(五分)以上の成績ならば認めるという小野らとの妥協が成立した。[[1873年]](明治6年)、1局目は敗れたが2局目で勝利し、ここで勝負は打ち切りとした。しかし、名人襲位の実現はさらに6年後になった。
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