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そして[[1932年]]、河上自身が[[日本共産党]]に入党して、その地下運動に参加する。入党後の仕事は、機関紙「赤旗」の編集を助け、政治パンフレット作りに参加し、その執筆にあたることだった。この間にした仕事で最も知られているのは、コミンテルンが発表した32年テーゼ(日本共産党の基本的活動方針)をいちはやく入手して翻訳し、それを党名の本田弘藤名義で「赤旗」特別号に発表したことである。
 
[[1933年]]8月1日、新生共産党事件といわれる政府による第4次検挙により、[[中野区大塚金之助]][[東京商科大学]]教授、[[風早八十二]]元[[九州帝国大学]]教授らとともに検挙され<ref>[[小島直記]]『気概の人石橋湛山』</ref>、[[治安維持法]]違反で[[豊多摩刑務所]]に収監される(のち[[市ヶ谷刑務所]])。収監中に自らの共産党活動に対する敗北声明と[[転向]]を発し、大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、[[曹操]]や[[陸游]]の詩に親しんだ。この成果は出獄後にさらにまとめた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる。[[1937年]](昭和12年)出獄後は、自叙伝などの執筆をする。[[1941年]]京都に転居。終戦後、活動への復帰を予定したが、[[1946年]]に老衰と栄養失調に肺炎を併発し、[[京都市]][[左京区]]の自宅で逝去。戒名は天心院精進日肇居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)103頁</ref>。[[1947年]]、『自叙伝』が刊行される。
 
== 著作 ==