「イ・サン」の版間の差分

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; [[英祖_(朝鮮王)|ヨンジョ(英祖)]]:[[イ・スンジェ]]-([[大塚周夫]])
: 李氏朝鮮第19代国王・[[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]の次男で、第21代国王。サンの祖父。正室は[[貞純王后|貞純(チョンスン)后金氏]](新安東金氏)。歴代の朝鮮王朝の中で最も長生きした君主であり、在位期間もおよそ52年と最も長い。厳格な性格であるが鋭い洞察力と明晰な頭脳を持つ。即位後、66歳の時に当時15歳であったチョンスン貞純王后王妃を後妻として娶る。粛宗の王世子であり異母兄でもある、のちの20代国王[[景宗 (朝鮮王)|景宗]]は少論派が支持しており、自らは老論派に支持され王世弟となる。景宗が死去すると王位を継ぎ、李氏朝鮮第21代国王となった。熾烈な党争の中で生命の脅威まで感じていた英祖は、朝廷では少論派より老論派を重用するようになるが、これが後に自身の息子の王世子(サンの父)を死に追いやることとなる。のちに英祖は王世子に「思悼(サド)」と追悼すると共に、王世子の息子であるサンを王世孫に冊立する。又のちにはこの一連のことを教訓としてサンに代理聴政を行わせ、老論派に牽制されることを前もって防止した。その後もサンの代理聴政を見守る傍ら、自身の継妃であるチョンスン貞純や重用している老論派の臣下に対しても、陰謀が露見した時には必罰の信念を貫いたが、若くして老王に嫁いだチョンスン貞純王妃を哀れんだため、彼女を死罪とすることはできなかった。また、死の直前、密かにソンヨンを呼び寄せて自分の記憶を頼りに思悼世子の肖像画を描かせ、彼女に生母[[淑嬪崔氏]]([[トンイ]])の形見の指輪を託した。その後、出来あがった肖像画を見ながら自身の愚を詫びつつ一人涙した。晩年には[[認知症]]<ref>この症状が「'''[[認知症]]'''」と呼ばれる様になったのは、2004年からである。それまでは「'''痴呆'''」と呼ばれていたが、この言葉は侮蔑的な意味があると同時に現代的な表現を取り入れる事によって視聴者に解り易くする為の配慮であり、『イ・サン』の時代(ここでは[[英祖_(朝鮮王)|英祖]]が亡くなった[[1776年]])では「'''認知症'''」と呼ぶのは本来ならば誤りである。また、本作では「認知症」の言葉以外にも現代的なアレンジが随所に加えられている。</ref>を患うようになり、[[1776年]]に老衰のため83歳で薨去した。
 
; [[荘献世子|サド(思悼)世子]]:[[イ・チャンフン]]-([[咲野俊介]])
: 英祖の次男で王世子(ワンセジャ)。サンの父。正室はヘギョングン恵慶宮である。2歳で王世子に冊立され、10歳でヘギョングン恵慶宮と婚姻を結ぶ。少論派の学者から学問を学んだため、朝廷を掌握している老論派と対立した。のちに英祖の代理として政務を処理するようになると、チョンスン貞純王妃と老論派が手を結び英祖に讒言するようになり、王世子を陥れた。次第に精神を蝕まれた王世子は奇行をくりかえすようになり、[[1762年]]に世子を廃され、王命により[[米櫃]]に閉じ込められ数日後に餓死した。のちに真相を知り息子が無実だと知った英祖はこれを悔やんで「思悼(サド)」と追悼し、[[1777年]]にはサンが即位後、「荘献」(チャンホン)と追尊した。のちに正祖が水原に華城や行宮を建設するとともに、当時の揚州(現在の[[ソウル特別市|ソウル市]][[東大門区]]の梨峰山)にあった父の墓を水原に移し(隆陵)しばしば供養のために訪れている。サンは即位後に彼を[[誹謗中傷]]するのは許さないと宣言している。
 
=== 宮中の人々 ===