「日中国交正常化」の版間の差分

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[[1957年]]2月に石橋首相の病気辞任の後[[岸信介]]が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。
 
そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に中華民国の台北に立ち寄り、蒋介石総統と会談して中華民国との関係を強化した。岸は中華民国の蒋介石との会談で軍事的な「大陸反攻」に反対しつつ台湾を大陸より豊かにすることが政治宣伝になると提案して中華人民共和国は反発した<ref>原彬久『岸信介証言録』p.160.</ref>。[[親米]]で[[親台|親華]]派だった岸も「日中貿易促進に関する決議」の提案者<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/024/0512/02403300512029a.html 衆議院会議録情報 第024回国会 本会議 第29号]昭和31年3月30日</ref><ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/025/0512/02512120512017a.html 衆議院会議録情報 第025回国会 本会議 第17号]昭和31年12月12日</ref>でもあり、総理就任後も対中政策重視のため<ref>岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』185頁、文藝春秋社、1981年</ref>に起用した[[藤山愛一郎]]外相とともに国会答弁などで中華人民共和国との国交樹立は尚早としつつ第四次日中民間貿易協定への「支持と協力」<ref>権容奭『日中貿易断絶とナショナリズムの相克』第4章</ref><ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/028/0082/02803200082011a.html 参議院会議録情報第028回国会外務委員会第11号]昭和33年3月20日</ref><ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/028/0082/02803200082011a.html 衆議院会議録情報第028回国会外務委員会第20号]昭和33年4月9日</ref>や「敵意を持っている、あるいは非友好的な考えを持っているということは毛頭ない」<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/031/0514/03102030514003c.html 衆議院会議録情報第031回国会予算委員会第3号]</ref>として日中貿易を促進したい旨<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/029/0512/02906170512004a.html 衆議院会議録情報第029回国会本会議第4号]昭和33年4月9日</ref>を再三述べており、岸は中華人民共和国との関係は基本的に「政経分離」であると語ってる<ref name=kishi2003syougenroku2003>原彬久『岸信介証言録』p.159.<ref>。岸は藤山とともに池田正之輔の訪中の際も打ち合わせを行っていた<ref>岸信介、矢次一夫、伊藤隆『岸信介の回想』211頁、文藝春秋、1981年</ref>。
 
そして[[1958年]]3月に岸政権の承諾<ref name=kishi2003syougenroku2003/>で第四次日中民間貿易協定が締結された。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、両国の国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に対して中華民国とアメリカから反発が出て、予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中華人民共和国側と緊張関係が漂う中で[[1958年]]5月2日に「長崎国旗事件」が起きた<ref group="注釈">この日、長崎市の浜屋デパートの4階催事場で行われた中国商品展示会でその会場に掲げられた五星紅旗を1人の青年が引き摺り降ろした事件。日本の警察が「旗を破損した」器物破損という軽微な事件として犯人をすぐに釈放した。</ref>。これに中華人民共和国の陳毅外相が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである<ref>「日中関係史」69P 有斐閣</ref>。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。この年の夏に周恩来首相が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、2つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、これに嫌悪感を示した日中間はしばらく膠着状態となった。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中華人民共和国側の「政経不可分の原則」と対立し、1959年に訪中した[[石橋湛山]]前首相と周恩来首相との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。
 
しかし、民間レベルでの接触は続き、企業や友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は、中華人民共和国内に[[文化大革命]]の嵐が吹き荒れた[[1960年代]]も続いた。