「ヨーゼフ・クリップス」の版間の差分

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[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政権に協力しなかったため、1945年の終戦後すぐにオーストリアの楽壇に復帰することができ、戦後[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]と[[ザルツブルク音楽祭]]を最初に指揮したひとりである([[ハンス・クナッパーツブッシュ|クナッパーツブッシュ]]、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]、[[カール・ベーム|ベーム]]、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]はナチ協力の嫌疑で復帰が遅れた)。巨匠不在のウィーン・フィルを支えた名匠といえる。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[リヒャルト・シュトラウス]]の作品を得意とした。
 
角のとれた優美なクリップスとウィーン・フィル(国立歌劇場管弦楽団)の芸風は、1968年の『[[コジ・ファン・トゥッテ]]』、1970年の『[[エジプトのヘレナ]]』などのライブ録音で偲ぶことができる。いわゆる「叩き上げ」の経歴をもち、歌劇場での稽古に手腕を発揮した。往年の名歌手[[エリーザベト・シュヴァルツコップ]]は、「一番お世話になったのはクリップス!」と述懐したという。名ピアニストのリリー・クラウスも、もっとも優れたモーツァルト解釈者として彼の名を上げた。当時は必ずしも花形とは見なされていなかったポストの在任、しかも短い期間が多かったこともあって、華々しい存在とはいえなかったが、ステレオ録音時代までウィーン生え抜きの香りを伝え続けた随一の存在であり、今なお根強いファンが存在する
 
レコード・ファンの間ではとかくドイツ・オーストリア音楽だけの専門家と見られがちであるが、実際は特にアメリカ時代には現代作品を含む幅広いレパートリーを誇った。来日公演でも[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]、[[アーロン・コープランド|コープランド]]などの作品を指揮している。
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