「トトメス2世」の版間の差分

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== 概要 ==
[[トトメス1世]]の下位の王妃の子であったが、政治的手腕に優れ、正妃の第一王女であった異母姉[[ハトシェプスト]]と結婚して王位を継承した。即位後はハトシェプストの野心を見抜き、王位簒奪を警戒して側室イシスとの間の子[[トトメス3世]]を後継者に指名しこれを牽制するが、病弱でありトトメス3世の成長を待たずに亡くなったため、ハトシェプストの専横を許すことになる。
 
=== 統治期間 ===
[[エジプト第18王朝|第18王朝]]の他の王たちと比較して、トトメス2世の統治期間については史料によって見解が分かれている。それには、トトメス2世の残した記念碑の多くがハトシェプストやトトメス3世のものとして流用され、書き換えられていることなど幾つかの理由がある。その在位期間は多くの場合、3年程度の短期間とする説と、12~14年程の比較的長期間とする説に大別される。
 
短命だったとする研究では、王の治世の開始時点で既に老齢だった建築監督のイネニがハトシェプストの治世中も存命だったらしいこと、トトメス2世の手によるほぼ唯一の記念碑もトトメス3世の治世中に完成している事等が根拠として挙げられる。
一般的に、歴代の王たちはその治世中に自らの名前を彫ったスカラベ印章を多数発行しており、しばしば研究者に王の統治期間を割り出すための史料として用いられる。トトメス1世の印章241個、ハトシェプストの149個に対してトトメス2世の印象は65個しか出土していないため、この方法を用いた研究者Luc Gaboldeはトトメス2世の治世が他の二人と比較して短く、2~3年程度だったと推測している<ref>{{cite journal|first=Luc|last=Gabolde|title=La Chronologie du règne de Thoutmosis II, ses conséquences sur la datation des momies royales et leurs répercutions sur l'histoire du développement de la Vallée des Rois|journal=[[Studien zur Altägyptischen Kultur]] |volume=14|year=1987|pages=67–68}}</ref>。
 
一方で、トトメス2世は「巣の中の鷹」という名で表現されており、これは王が幼少期に即位した可能性を示唆している。また、ハトシェプストは通常、治世30年目に行われる[[セド祭]]を、自らの治世16年目に行っている。これは、自身の治世を父トトメス1世が崩御した年から数え、女王自身が父王の正当な継承者であるという名目で行われたものと考えられている。これを踏まえると、トトメス1世が崩御し、ハトシェプストが女王を名乗るまでの間には14年程の開きがあるということになる。
その他、ハトシェプストが最初に埋葬されたKV20は本来トトメス2世の墓として用意された可能性が高く、ハトシェプスト女王葬祭殿も本来はトトメス2世によって建設が開始された可能性があること等が、トトメス2世の治世が比較的長期間に渡るものであったらしい事を示している。
 
以上の経緯から、現時点ではトトメス2世の治世は13年前後であるとの見方が主流となっている。
 
{{Commonscat|Thutmosis II}}