「姉川の戦い」の版間の差分

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信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。
 
=== 奇襲説 ===
姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲であったという説を[[高澤等]]は唱えている<ref>高澤等著『新・信長公記』 ブイツーソリューション、2011年</ref>。6月27日早朝に浅井・朝倉軍は一旦大依山から姿を消した。この時の状況を『[[信長公記]]』では「六月廿七日の暁、陣払ひ仕り、罷り退き侯と存じ侯のところ廿八日未明に三十町ばかりかゝり来なり」と陣払いして退却したと思った浅井・朝倉軍が突然として距離三十町のところに現れた様子を記している。織田軍は敵勢が陣払いしたと勘違いして再び軍勢を[[横山城]]の包囲体制に戻し、織田軍は本陣の背を突かれる形となっり両軍陣形を整えず即座に戦いに突入したとする<ref group="注">『年代記抄節』にも「(浅井・朝倉軍が)横山へ後巻両手に取出、押寄、即時に両手一同に切崩、信長得大利候」と、対陣する間もなく即刻合戦に突入して切り崩した様子が伝えられている。</ref>。また姉川の戦いは両軍日時を取り決めた合戦だったとしている<ref group="注">信長はすでに若狭国武田信方宛6月6日付の書状で、6月28日に合戦になるので高島まで出陣するように要請している。つまり合戦期日を予め決めていたということで、それは浅井・朝倉方にも通達していたことになる。『新・信長公記』高澤2011</ref>。
 
== 参戦武将 ==
76

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