「江戸開城」の版間の差分

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[[画像:HSParkes.jpg|thumb|right|200px|ハリー・パークス]]
正月25日の局外中立宣言後、パークスは[[横浜]]に戻り、治安維持のため、横浜在留諸外国の軍隊で防備する体制を固めたのち、東征軍および徳川家の情勢が全く不明であったことから、[[公使館]][[通訳]][[アーネスト・サトウ]]を江戸へ派遣して情勢を探らせるいっぽう一方、3月13日(1868年4月5日)午後には新政府の代表を横浜へ赴任させるよう要請すべくラットラー号を大阪へ派遣している。
 
東征軍が関東へ入ると、東征軍先鋒参謀[[木梨精一郎]](長州藩士)および[[渡辺清 (政治家)|渡辺清]](大村藩士)は、横浜の英国公使館へ向かい、来るべき戦争で生じる傷病者の手当や、病院の手配などを申し込んだ。しかし、パークスはナポレオンさえも処刑されずに[[セントヘレナ島]]への[[流刑]]に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは[[万国公法]]に反するとして激昂し、面談を中止したという<ref>渡辺清 述「江城攻撃中止始末」(『史談会速記録』第六十八輯)。</ref>。またパークスは、徳川慶喜が外国に亡命することも万国公法上は問題ないと話したという<ref>「復古攬要」(『大日本維新史料稿本』)「一.慶喜仏国ヘ応接依頼イタシ候節ハ、仏国ニ於テイカガ取計可申哉。答(パークス).西洋諸国ニ於テ不条理ハ引受不申、決テ御心配ニ不及候。一.慶喜進退相迫、万一洋行之頼候節、貴国ニ於テイカガ取計有之候哉。答.慶喜洋行之頼候ワバ、差免候。是ハ万国公法ニ御座候」。</ref>。このパークスの怒りを伝え聞いた西郷が大きく衝撃を受け、江戸城攻撃中止への外圧となったというものである<ref>前出「江城攻撃中止始末」より。「直ぐ西郷の所へ行きまして、横浜の模様を斯々といいたれば、西郷も成る程悪かったと、パークスの談話を聞て、愕然として居りましたが、暫くしていわく、それは却て幸いであった。此事は自分からいうてやろうが、成程善しという内、西郷の顔付はさまで憂いて居らぬようである」。</ref>。