「兵範記」の版間の差分

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『'''兵範記'''』(へいはんき/ひょうはんき)は、[[平安時代]]の[[公家]][[平信範]]の日記。書名は信範の[[極官]]である[[兵部卿]]と信範の名から。また住所であった洞院を取って『'''平洞記'''』とも、信範の二字の偏を取って『'''人車記'''』とも呼ばれる。記載時期は[[天承]]2年([[1132年]])から[[承安 (日本)|承安]]1年([[1171年]])に至るまで約40年間を網羅する。
 
信範は、[[桓武平氏]]高棟流の流れをくむ「日記の家」と呼ばれた実務官僚の家系であり、その日記は平安時代後期の朝廷や公家たちの活動、朝廷の儀典について知るための基本史料となっている。特に信範は[[摂関家]]の[[藤原忠通]]・[[藤原基実|基実]]らに[[家司]]として仕えたため、当時の上級公家などの動きに詳しく、なかでも[[保元の乱]]および乱後の[[後白河天皇|後白河院]]・[[平家]]などについての詳細な記述は、他の諸記録の追随を許さないといえる。
 
さらに『兵範記』原本の特長としては、大量の[[紙背文書]]の存在が挙げられる。信範が摂関家[[政所]]別当職や[[蔵人頭]]を務めていた際の訴訟・行政文書の裏が日記用の紙に使われており、摂関家の内部事情や蔵人頭の業務内容が窺える貴重な史料ともなっている。