「仁宗 (朝鮮王)」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]と[[章敬王后]]尹氏の子として1515年に誕生。同母姉に[[孝恵公主]]、異母兄弟に[[明宗 (朝鮮王)|明宗]]らがいる。1520年に王世子に冊立され、1522年に[[成均館]]に入学して儒学を修めた。
 
彼は静かな性格で兄弟愛が強く、姉の[[孝恵公主]]が死去した際には悲しみで病床に臥し、中宗が病気になると自ら毒味し、冬の寒さの中で沐浴斎戒して夕方から明け方まで父の回復を祈った。しかし、継母の文定王后は意地悪く猜疑心の強い女性であったため、仁宗を非常に苦しめ、何度も火事などで殺されそうになる。
 
1544年11月に中宗の薨去に伴い即位し、父親が在世中に改革を試みたが果たせず、遺物として残っていた宮中の腐敗を撤廃しようと試みた。その中には中宗時代に[[趙光祖]]の提案によって設置され、一度は廃止されていた[[賢良科]]([[科挙]]によらない人材登用制度)の復活も含まれる。しかし生来病弱であった仁宗は、在世中も病のために、十分には政務を果たすことができなかった。