「明宗 (朝鮮王)」の版間の差分

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=== 王子 ===
*順懐世子 李{{lang|zh|暊}}(日偏に頁)(ブ、{{lang|ko|부}})(1551年-1563年) 母は仁順王后。
: 1561年尹元衡(文定王后の弟)の姻戚である黄大任の娘を世子嬪に選んで冊嬪礼まで終えた(この時王と王妃は黄任の娘があまり気に入らなかったが[[文定王后]]の言付けに押され仕方なくそのまました。)が、彼女がとても病弱なので良娣に降格させ、恭懐嬪尹氏と嘉礼をあげた。子は無く13歳で死去。明宗の子は他におらず、その血筋は断絶。明宗の庶兄の一人徳興大院君の子(順懐世子の従弟)宣祖が第14代国王として即位した。
*世子嬪:恭懐嬪尹氏(?-1592年)
: 工曹判書を勤めた尹思翼の息子である尹玉の娘で、正確な生まれた年は不明だが実録によれば[[揀択]]された時 10歳だったと言う。1561年順懐世子と嘉礼をあげ世子嬪になったが、1563年に順懐世子が逝去する徳嬪と呼ばれた。恭懐は諡号。宣祖即位後にも宮殿でずっと生活していたが1592年、日本名[[文禄・慶長の役]]・朝鮮名[[壬辰倭乱]]が起きる直前に[[昌慶宮]] 通明殿で死去。