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1914年には映画界に進むがお決まりの役柄しか回ってこなかったが、1919年には歴史劇や文芸作品で大いに名を挙げ、1920年代中頃には国際的にも知名度が上がり、『[[ヴァリエテ]]』(1924年)、『[[最後の人]]』(1925年)などの作品で多くの人々が世界的にも偉大な映画俳優として認めるようになる。
 
1927年米国の[[パラマウント]]映画]]と契約を結び、[[ハリウッド]]に移り、渡米第1作『[[肉体の道]]』(1927年)と第2作『最後の命令』(1928年)で初の[[アカデミー主演男優賞]]を獲得する。しかし、[[トーキー映画]]の急速な波のなか、[[ドイツ語]]訛りが強かったヤニングスはアメリカでのキャリアを終えざるを得なかった。
 
1929年、彼はドイツへ帰る。1930年、ドイツに渡ったハリウッドの新進監督[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]の手で『[[嘆きの天使]]』が作られた。この作品によって[[マレーネ・ディートリヒ]]とスタンバーグは、国際的に名をあげ、映画史上に一時代を築く。ヤニングスにとっても、この『嘆きの天使』は、彼の出演作品中最大のヒットとなった。だが、当時すでに評価の定まっていた彼にとっては、単なるヒット作の域を出ず、最後の輝きを放つものとなった。