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=== 引退後 ===
その後はロッテのコーチ兼スカウト({{by|1977年}})を務め、[[レロン・リー]]を自身の仲介で入団させる功績を残した。{{by|1978年}}に帰国し、ドジャース傘下のルーキーリーグ監督に就任。シーズン終盤に急逝した[[ジム・ギリアム]]の後任としてドジャースの打撃コーチとなり、{{by|1979年}}まで在籍。退団後は[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ジャイアンツ]]({{by|1980年}} - {{by|1982年}})→[[オークランド・アスレチックス|アスレチックス]]({{by|1987年}} - {{by|1988年}}, {{by|1994年}} - {{by|1995年}})→[[シアトル・マリナーズ|マリナーズ]]({{by|1989年}} - {{by|1991年}})→[[シカゴ・カブス|カブス]]({{by|1992年}} - {{by|1993年}})→[[ミルウォーキー・ブルワーズ|ブルワーズ]]({{by|1998年}} - {{by|1999年}})→[[シンシナティ・レッズ]]({{by|2002年}})→[[野球中華人民共和国代表|中国代表]](2002年 - {{by|2008年}})→[[サンディエゴ・パドレス|パドレス]]({{by|2009年}})で監督・コーチを歴任。マリナーズ監督時代の1991年には球団史上初のシーズン勝ち越しを決めたが、球団フロントとの軋轢により退団。1999年はシーズン途中からブルワーズで監督を務めた。2002年に中国代表監督に就任し、[[アジアシリーズ]]({{by|2005年}} - {{by|2007年}})、[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|ワールド・ベースボール・クラシック]]({{by|2006年}})、[[北京オリンピックにおける野球競技|北京オリンピック]](2008年)でも指揮を執った。北京五輪では予選リーグで[[野球中華民国代表|台湾]]を破る歴史的な1勝を挙げたが、8ヶ国中最下位に終わり、オリンピック後に退任。2008年オフにパドレスの打撃コーチに就任したが、2009年シーズン途中で解雇された(後任は同じく日本のロッテでプレーした[[ランディ・レディ]])。
 
息子のライアン・ラフィーバーも元プロ野球選手([[外野手]])。1993年に[[クリーブランド・インディアンス]]からドラフト27巡目で指名され[[マイナーリーグ]]でプレー。現在はスポーツキャスターとして活動している。