「鷲羽山佳和」の版間の差分

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'''鷲羽山 佳和'''(わしゅうやま よしかず、[[1949年]][[4月2日]]- )は、[[岡山県]][[児島市]](現在の[[倉敷市]])出身で、[[出羽海部屋]]に所属した[[大相撲]][[力士]]。本名は'''石田 佳員'''(いしだ よしかず、旧姓は鈴木)。身長175cm、体重112kg。得意手は[[突っ張り]]、押し、いなし。最高位は東[[関脇]](1976年5月場所)。
 
引退後は年寄・[[境川 (相撲)|境川]]を経て、[[1996年]]2月から[[2014年]]1月まで年寄・[[出羽海]]を襲名し、出羽海部屋の師匠も務めた。
 
== 来歴 ==
岡山県立琴浦高等学校(現・[[岡山県立倉敷鷲羽高等学校]])を中退して、兄(後の[[十両]]・[[常の山日出男|常の山]])が所属していた出羽海部屋から[[1967年]]3月場所で[[初土俵]]を踏んだ。初土俵の際に同姓の力士が既に在籍しており四股名選びに困っていたところ、入門前に[[常ノ山勝正|常ノ山]]が切り盛りしていた料理店で本人と面識を持った縁で常ノ山の若名乗りである'''鷲羽山'''を与えられ、以後引退まで鷲羽山で通す。身長173cmという入門規定ぎりぎりで合格し、小さい体で活躍した。[[1972年]]7月場所で十両に昇進、前場所の取組で負傷し、新十両の場所全休する不運に見舞われたのの、1972年1月場所より採り入れられた[[公傷制度]]を十両力士として初めて適用されたことで、「十両の土俵助け上がれて[[番付]]はないまま幕下陥」という事態を免れ、実質的な新十両場所とされた1972年9月場所でも勝越しはできなかった。それがそ昇進に大きく影響した、十両残留相当で、公傷によって救われ成績を修めケースといえようその当時以降『ちびっ子ギャング』<ref name="washuyama"/><ref>負傷も回復し、新入幕を果たした[http://www.jiji.com/jc/v2?id=2016sumo_imyo_19 角界「異名」列伝 ウルフの時代[1973年] 時事ドットコム</ref>の異名を取り]5月場所では初日から8連勝するとともに[[旭國斗雄|旭國大関]][[北瀬海弘光清國勝雄|北瀬海清國]]らとともを破る殊勲の星を挙げる<ref>清國の攻め小兵旋風土俵際に詰まったが、清國の突き手吹かせ技能派力士手繰って後ろへ回る送り出して人気を博した勝利
 
:『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p49</ref>など11勝4敗と大勝ちし、この好成績で[[三賞#敢闘賞|敢闘賞]]を受賞した<ref name="washu">『大相撲ジャーナル』2017年6月号109頁</ref><ref name="washuyama" />。[[1977年]]7月場所では、殊勲・敢闘賞が該当なく、技能賞の彼だけが[[三賞]]受賞者となるという珍しい状態になったこともあった。
新入幕を果たした[[1973年]]5月場所では、初日から8連勝するとともに[[大関]]・[[清國勝雄|清國]]を破る殊勲の星を挙げる<ref>清國の攻めに土俵際に詰まったが、清國の突き手を手繰って後ろへ回ると送り出して勝利。
:『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p49</ref>など11勝4敗と大勝ちし、この好成績で[[三賞#敢闘賞|敢闘賞]]を受賞した<ref name="washu">『大相撲ジャーナル』2017年6月号109頁</ref><ref name="washuyama"/>。[[1977年]]7月場所では、殊勲・敢闘賞が該当なく、技能賞の彼だけが[[三賞]]受賞者となるという珍しい状態になったこともあった。
 
小柄ながら正攻法の相撲で、突っ張りや押し、いなしと言った多彩な技で長く[[土俵]]を沸かせた<ref name="washu" /><ref name="washuyama">『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p27</ref>。『ちびっ子ギャング』<ref name="washuyama" /><ref>[http://www.jiji.com/jc/v2?id=2016sumo_imyo_19 角界「異名」列伝 ウルフの時代] 時事ドットコム</ref>の異名を取り、[[旭國斗雄|旭國]]、[[北瀬海弘光|北瀬海]]らとともに小兵旋風を吹かせ技能派力士として人気を博した。[[北の湖敏満|北の湖]]には[[1975年]]11月場所8日目に金星を獲得、また新[[小結]]だった[[1976年]]3月場所4日目にも勝利している。この大横綱をして、「あの人は僕とは相撲の見方が違う」と言わしめた力士だった。ただし[[輪島大士|輪島]]に対しては極端に成績が悪く、初顔から18度戦って終に、一度も勝てずに終わった。
 
小兵力士ながら36歳まで現役を務めており、大型力士が輩出した時代の中では特筆される。現役時代晩年には幕内と十両を往復していたが、その当時に[[黒船]]と称されるほどの快進撃を続けていた[[小錦八十吉 (6代)|小錦八十吉]]を破り、話題になった。
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[[1996年]]2月には、出羽海[[理事長]]([[横綱]]・[[佐田の山晋松|佐田の山]])が理事長職に専念するため出羽海部屋の経営から離れることになったことを受けて、出羽海と境川の年寄名跡を交換して10代出羽海を襲名するとともに伝統ある出羽海部屋を継承した<ref name="washuyama"/>。[[2002年]]には、[[一門 (相撲)#出羽海一門|出羽海一門]]を代表して[[日本相撲協会]]理事に就任した。
 
直弟子からは、小結・[[普天王水|普天王]]、十両・[[出羽鳳太一|出羽鳳]]、[[出羽平真一|出羽平]]など、多数の関取を育てている
 
[[2010年]][[3月31日]]に大関・[[把瑠都凱斗|把瑠都]]の[[昇進伝達式]]で使者を務めた際には、私服姿で夜の繁華街を闊歩したことなどで過去に2度の厳重注意を受けた例を引き合いにして「相撲も大事だけど、私生活もな。これからは、横綱みたいに注目されるのだから」と把瑠都に苦言を呈する異例の様子を見せた。同年1月場所直後に横綱・[[朝青龍明徳|朝青龍]]が一般人への暴力行為を働いた不祥事を受けて引責引退したばかりであっただけにこの時期には外国人力士の品格が厳しく問われていた。出羽海はその日、伝達式から引き揚げる際にも「上を目指して努力してほしいが、私生活でも気を引き締めてもらわないといけない」と改めて訴えた。<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/special/2010sumounatsu/KFullNormal20100401142.html ノーモア朝青龍!大関・把瑠都に使者“物言い”] Sponichi Annex 2010年04月01日</ref>
 
2010年に発覚した[[大相撲野球賭博問題]]では執行部(事業部長)として、また弟子の野球賭博関与の監督責任で、名古屋場所謹慎の処分となる<ref>2010年 7月5日朝日新聞</ref>。場所中に入院した[[三重ノ海剛司|武蔵川理事長]]から場所後の理事長代行の指名を受けていたが、賭博問題を受けて発足した特別調査委員会の山口弘典の暴力団への維持員席のチケットが渡ったとされる問題で、山口の委員就任前に報告を受けながら黙認したことが問題となり、代行は場所中に努めた外部理事の[[村山弘義]]がそのまま務めることになった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/special/2010sumounagoya/KFullNormal20100724152.html 維持員席問題で辞任拒否…山口特別調査委員を解任 スポニチアネックス 2010年7月24日閲覧]</ref>。
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== 人物 ==
*四股名の由来である[[鷲羽山]]は実家のすぐそばにあり、本人曰く「あまりに平凡で嫌だった。知り合いから電話があっても近所の山の方と混同されそうで恥ずかしかった」といい、私生活で恥じることなくこの四股名を名乗ることができるようになるまで襲名以降1年から2年を要したという<ref>『相撲』2014年3月号72頁</ref>。
*現役時代から語彙が多く表現力が長けており、「[[高見山大五郎|高見山]]に振られた時は[[宇宙遊泳]]してるようだった」などの名言を残している
*[[土俵入り]]では、[[はらたいら]]が描いた「モンローちゃん」の化粧廻しを使用したこと時期もある<ref>[http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1812965.html 千代大龍は「キン肉マン」/主な漫画化粧まわしメモ] 日刊スポーツ 2017年4月25日9時50分 紙面から</ref>。また
*新年の恒例[[番組]]だった『大相撲部屋別対抗歌合戦』([[フジテレビ]])では親方時代に至るまで自らセンターに立つなど、意欲的に参加していた。現役時代、カラオケでは演歌、懐メロで右に出る者はいないという歌唱力を誇ったが、現役当時の座談会では「五木ひろしの歌オンリー」と言っていた<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p56</ref>。
*[[相撲茶屋]]「伊勢福」の女将(元小結・[[大起男右エ門|大起]]の未亡人)の養子となって、鈴木姓から石田姓に改めた。
*[[1981年]]3月場所6日目に行われた座談会では9代出羽海の喜ぶ顔を見るために相撲を取っていることなどを明かした<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p57</ref>。