「黄檗希運」の版間の差分

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幼くして黄檗山建福禅寺(後の[[万福寺 (古黄檗)|万福寺]]・[[福建省]])で修行し、後に[[百丈懐海]]([[749年]] - [[814年]])の法嗣となる<ref name="ib109" />。
 
江西洪州鍾陵([[江西省]][[宜春市]][[宜豊県]]) の鷲峰山に黄檗山{{efn|黄檗山を山号とする寺院は全世界に1.黄檗山万福寺(福建省福州市福清市永福郷) 2.黄檗山黄檗寺 (江西省宜春市宜豊県鷲峰山)3)、3.黄檗山万福寺([[京都府]][[宇治市]])の3ヵ寺。最初に黄檗山を称したのは1.黄檗山万福寺である。5世紀末の文献にその地名がみえるがその頃はまだ寺院などは建立されていなかった<ref>[[林田芳男]] 「明末における福州の仏教」 「黄檗文華」第114号</ref>。}}黄檗寺を開創<ref name="ib109" />{{efn|希運の法系は栄えたので黄檗山黄檗寺も有名になり、黄檗山万福寺と甚だしく混同されるようになった。希運は万福寺の前身である建福禅寺で修行した時期があったが、住持であったことはない。}}。この山号は修業時代を忘れないために用いたという。
 
[[大中]]4年([[850年]])に同寺で示寂した。[[諡]]して断際禅師といい、髪塔を広業塔といった。