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*呼得国<ref>「烏掲」,「呼偈」とも記され、のちの[[テュルク系民族]][[オグズ]](Oγuz)の祖先とされる。《『騎馬民族史1』p19 注31、P100 注3、p106 注18》</ref>は葱嶺(パミール高原)の北、烏孫の西北、康居の東北に在り。堅昆国は康居の西北に在り。丁令国は康居の北に在り。これら三国は、堅昆が中央で、倶に匈奴の単于庭がある安習水を去ること七千里、南の車師六国を去ること五千里、西南の康居界を去ること三千里、西の康居王治を去ること八千里に位置する。<ref>『魏略』西戎伝</ref>
*阿輔水,剣水の間にて契骨と号す<ref>『周書』列伝第四十二 異域伝下</ref>。
*黠戛斯の地は[[伊吾]]の西、[[焉耆]]の北、白山の旁ら<ref>この地を黠戛斯の住地とするのは不正確。黠戛斯の本土はイェニセイ上流域である。《『騎馬民族史2』p449注147》</ref>。[[回鶻]]牙までは橐駝で行くこと40日。天徳を出て200里で西受降城に至り、北は300里で鷿鵜泉に至り、鷿鵜泉の西北は回鶻牙まで1500里だが、東西に二道あり、泉の北は東道なり。回鶻牙の北600里には仙娥河([[セレンガ川]])があり、河の東北には雪山があってその地には水泉が多い。青山の東には剣河という川があり、川は悉く東北へ流れ、その国を経て合流し、北の海へ入る。<ref>『新唐書』列傳第一百四十二下 回鶻下</ref>
 
以上のようにバイカル湖の南から[[ジュンガル盆地]]、[[カザフ草原]]にいたる広大な範囲に分布していることがわかる。また、[[ラシード・ウッディーン]]の『[[集史]]』「テュルク・モンゴル諸民族誌」では次のように記されている。