「7月20日事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
4行目:
| caption = 事件後の[[ヴォルフスシャンツェ]]会議室。左から[[ハインツ・リンゲ]]、[[マルティン・ボルマン]]、[[ユリウス・シャウブ]]、[[ヘルマン・ゲーリング]]、[[ブルーノ・レールツァー]]、氏名不明の空軍将校
| date = {{unbulleted list|li_style=line-height:1.25em; |1944年7月20日 {{small|(暗殺未遂)}} |{{nowrap|1944–1945 {{small|(逮捕から処刑まで)}}}}}}
| place = {{unbulleted list|li_style=line-height:1.25em; |{{DEU1935}} [[東プロイセン]][[ラステンブルク]] |{{small|(現[[ポーランド]][[ヴァルミア=マズールィ県]][[ケントシン]])}} |{{coord|54.079344|21.493544|display=inline|region:PL-WM_type:landmark|name=Site of 20 July 1944 Plot at Wolfsschanze or Wolf's Lair}}}}
| result = [[アドルフ・ヒトラー]][[総統]]の暗殺および[[クーデター]]失敗
| combatant1 = {{flagicon image|Proposed German National Flag 1944.svg}} [[黒いオーケストラ]]
103行目:
 
=== 失敗の原因 ===
暗殺に失敗した原因は複数あるが、その中で比較的有名なのは総統大本営での爆発についてであり、その詳細は以下の通りである。
#当日の気温が高く、密閉空間である地下会議室で行われる予定の作戦会議は地上の木造建築の会議室で行われることになった。さらに気温の関係で、窓も開かれたため、これが爆風の逃げ道となり、仕掛けた爆弾の威力を削ぐ結果となった。
#会議の開始が直前になって30分早まったため、用意していた2個の爆弾のうち1個しか時限装置を作動できなかった。
#シュタウフェンベルクは爆弾が入った鞄を、会議用テーブル下のヒトラーに近い位置に置いたが、総統副官のブラント大佐はその鞄を邪魔に感じ、それを木製脚部の外側へ移動させた。その偶然の動作により、テーブル脚部がヒトラーに対する爆風を直撃する盾となり、ヒトラーに当たる爆風の威力が軽減された。
そのため、人為的要素ではない1が解決されれば、暗殺が成功したと指摘する声があった。そんななか、アメリカのテレビ番組『[[怪しい伝説]]」という番組で1の点が検証された。番組内では、地下室の再現はできなかったものの、密閉空間の再現としてコンテナを代用し、2と3の内容は変えずに爆破実験が行われた。その結果、史実の地下室より有利な状況にもかかわらず<ref>地下室に比べコンテナの方が面積が狭いためである。</ref>、ヒトラーは死亡には至らなかった。そのため、番組の結論としては1の要素より、2と3の要素の方が影響が大きいとまとめられている。
 
実際、副官のブラント大佐が鞄を動かした位置で爆風の直撃を受けたと思われる人物が即死ないし重傷を負ったことがこの結論を補強している。
 
== 粛清 ==
132 ⟶ 133行目:
 
== 影響 ==
ヒトラーは、爆発の影響で極度の人間不信に陥ったと言われており、実際、関係者の摘発や粛清が徹底的に進められたことで、「総統に反逆を行うものは自身のみならず一族郎党含めて極刑に処する」という強い警告が浸透するようになり、これ以降ヒトラーに対する暗殺計画が実行されることはくなった。
 
俗説として、ヒトラーは[[パーキンソン病]]を患っており、この事件の影響でそれを悪化させたと言われるが、実際には発病していなかったことが証明されている<ref>ヴェルナー・マーザー著「人間ヒトラー」や アントン・ヨアヒム・スターラー著「ヒトラーの最期」で詳細に報告されている。</ref>。
 
また、この事件を契機に国防軍内でも[[ナチス式敬礼]]を行うことになった。その他、それまでは政治的影響を免れていた[[ドイツ海軍 (国防軍)|海軍]]にも[[政治将校]]が配属され、それは前線の[[Uボート]]部隊にも波及した。さらに、「'''7月20日の裏切り者'''」のレッテルを貼られることを怖れた将軍たちはヒトラーに意見することを止め、ドイツ軍の作戦行動は硬直化することとなったが、反面軍部内の防諜が強化され、連合軍の情報収集活動も困難化した。
 
暗殺未遂事件に関与した者に対する粛清は、ドイツ降伏直前の1945年4月下旬まで続けられた。
143 ⟶ 144行目:
[[ファイル:Bendlerblock gdw1.jpg|thumb|ベンドラーブロックに立つブロンズ像]]
第二次世界大戦が終結すると、彼らは反ナチス運動の実行者として賞賛されることになった。現在ベルリンの国防省跡に、ベック、シュタウフェンベルク、ヘフテン、オルブリヒト、クイルンハイムら五人の名を刻んだ記念碑が建っている。
 
また予備軍司令部があったベンドラー街は、シュタウフェンベルク街と改称され、ナチス抵抗運動の記念館が建っている。彼らが処刑された中庭の跡には、象徴としてブロンズ像が置かれている。
 
== 参考文献 ==
*[[ロジャー・マンベル]](''Roger Manvell'') 『[[ヒトラー]]暗殺事件』<br />
*:第二次世界大戦ブックス31:[[サンケイ新聞]]社出版局、1972年。
*ロジャー・マンヴェル、ハインリヒ・フレンケル (''Roger Manvell、 Heinrich Fränkel'') <br />
*:[[片岡啓治]]訳 『ゲシュタポへの挑戦 ヒトラー暗殺計画』 新人物往来社、1973年。
*[[小林正文]] 『ヒトラー暗殺計画』 [[中公新書]]、1984年、ISBN 4-12-100744-1
*ヴィル・ベルトルト、小川真一訳 『ヒトラーを狙った男たち ヒトラー暗殺計画・42件』 講談社、1985年、
*[[ハンス・ヘルムート・キルスト]]、[[松谷健二]]訳 『軍の反乱』 [[角川書店]]、1987年
*[[檜山良昭]] 『ヒトラー暗殺計画』 徳間文庫 1994年
*アレクサンダー・シュタールベルク(''Alexander Stahlberg'')、鈴木直訳<br />
*:『回想の[[第三帝国]] 反ヒトラー派将校の証言』 [[平凡社]]上・下、1994年
*[[山下公子]] 『ヒトラー暗殺計画と抵抗運動』 [[講談社選書メチエ]]、1997年
*ロジャー・ムーアハウス、高儀進訳 『ヒトラー暗殺』 [[白水社]] 2007年 ISBN 4-560-02626-2
*[[グイド・クノップ]]、高木玲訳 『ヒトラー暗殺計画 ドキュメント』<br />
*:[[原書房]] 2008年 ISBN 4562041439
*スティ・ダレヤー、加藤節子ほか訳 『[[ワルキューレ]] ヒトラー暗殺の二日間』<br />
*:原書房 2009年 ISBN 4562042370、映画原作
* ペーター・ホフマン 『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 ワルキューレに賭けた一族の肖像』<br />
*:大山晶訳、原書房、2010年 ISBN 4-562-04589-2
 
*[[児島襄]] 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 [[文春文庫]]全10巻
*[[ジョン・ウィーラー=ベネット]]著、[[山口定]]訳 『国防軍とヒトラー (I・II)』<br />
*:[[みすず書房]]、2002年、I=ISBN 4-622-05107-9、II=ISBN 4-622-05108-7<br />
*:『権力のネメシス 国防軍とヒトラー』(1984年刊)を2分冊した新装版。
 
== 映画 ==
173 ⟶ 183行目:
== 関連項目 ==
*[[ヒトラー暗殺計画]]
*[[ナチズム]]
*[[フォックスレイ作戦]]
*[[1944年]]7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関係者([[:en:List of members of the 20 July plot]])
183 ⟶ 192行目:
 
== 外部リンク ==
{{commonscommonscat|Category:20 July plot|1944年7月20日のヒトラー暗殺計画}}
*[http://revisionist.jp/remer_01.htm オットー・レーマー少将は語る(反乱を鎮圧したベルリン警備大隊長レーマー少佐の戦後の回想)] - [[歴史修正主義|歴史的修正主義]]研究会試訳
{{アドルフ・ヒトラー}}
189 ⟶ 198行目:
{{Normdaten}}
 
{{デフォルトソート:720にちしけん}}
[[Category:7月20日事件|*]]
[[Category:アドルフ・ヒトラー]]