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王份の兄の[[王奐]]が[[雍州]]で処刑されると、王奐の子の[[王粛 (南北朝)|王粛]]が[[北魏]]に亡命したため、王份は自らを拘束して罪を請うた。[[斉 (南朝)|斉]]の武帝[[武帝 (南朝斉)|蕭賾]]は王份の誠意を知って、罰しなかった。まもなく寧朔将軍・零陵郡内史に任じられた。黄門侍郎として召されたが、父の最終官であったことを理由に、固辞して受けず、秘書監に転じた。
 
[[天監]]初年、散騎常侍の位を受け、歩兵校尉・起部尚書を兼ねた。[[蕭衍]]がかつて宴席で「朕は有をなすか無をなすか」と群臣に訊ねたことがあった。王份が「陛下は万物に応じて有をなし、体は理に至って無をなします」と答えたため、蕭衍は褒めたたえた。[[宣城郡]][[太守]]として出向し、[[呉郡]]太守に転じた。寧朔将軍・北中郎章王長史・蘭陵郡太守となり、行南徐府州事をつとめた。太常卿・太子右率・散騎常侍に転じ、東宮に仕え、金紫光禄大夫の位を受けた。また智武将軍・南康王長史となった。入朝して散騎常侍・金紫光禄大夫・南徐州大中正となった。尚書左僕射に転じ、まもなく[[侍中]]の位を加えられた。
 
[[普通 (梁)|普通]]2年([[521年]])、本官のまま大匠卿を兼ね、散騎常侍・右光禄大夫に転じた。侍中・特進・左光禄大夫に進み、また本官のまま監丹陽尹をつとめた。5年([[524年]])3月、死去した。享年は79。本官を追贈された。[[諡]]は胡子といった。