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『'''秋津温泉'''』(あきつおんせん)は、[[1947年]]に発表された[[藤原審爾]]の[[小説]]。[[1962年の映画|1962年]]には同名のタイトルで[[日本映画]]として公開される。
==
藤原審爾は戦争中21歳の時に[[岡山市|岡山]]で「秋津温泉」の執筆を始め、戦災で[[吉備津]]に移り、戦後[[倉敷市]]で書きあげた。同人誌に書いた作品が[[河盛好蔵]]らに認められて、『人間別冊』『別冊文藝春秋』から執筆の依頼が来て、1947年に前半を『人間別冊』に、後半を『別冊文藝春秋』に掲載。1948年、[[講談社]]の新鋭文学選書として刊行。加筆したものを1949年に[[新潮社]]より刊行。藤原の初期代表作として知られる。
[[主人公]]<私>は17年間にわたり5度秋津温泉を訪問し、ヒロイン新子と17年間にわたる愛を深める。
モデルになったのは[[
== 映画 ==
監督と脚本は[[吉田喜重]]。
[[1962年]]([[昭和]]37年)[[キネマ旬報ベストテン]]第10位、第17回[[毎日映画コンクール]]女優主演賞(岡田茉莉子)を受賞した。
岡田はこの映画の後で引退しようと考えたが、監督の吉田に「あなたは青春を映画に全て捧げて、もったいないかと思いませんか」と言われて引き留められた。1963年には吉田と結婚、「吉田と結婚したから、女優を一生続けようと思いました」と語っている<ref name=asahi/>。
当初、[[芥川比呂志]]でクランクインしたが、途中で芥川が病気で降板し、急きょ[[長門裕之]]を代役に立てて撮り直した。
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== あらすじ ==
太平洋戦争中、生きる気力を無くした一人の青年、河本周作は死に場所を求めてふらりと秋津温泉にくる。結核に冒されている河本は、温泉で倒れたところを、温泉宿の女将の娘、新子の介護によって元気を取り戻す。そして、終戦。玉音放送を聞いて涙する純粋な新子に心打たれた河本は、やがて生きる力をとりもどしていく。互いに心惹かれる二人だったが、女将が河本を追い出してしまったために、河本は街に戻る。数年後、秋津に再び現れた河本だが、酒におぼれ、女にだらしない、堕落してしまった河本に、新子はいらだちを覚える。そこで、河本が結婚したことを知った新子は、苦しい河本への思いを捨てきれないまま、河本を送り出す。その後、東京に行くことになった河本は再び秋津を訪れる。一途なまでに河本を思う新子、そして、優柔不断でだらしない河本は再び都会へ。さらに四たび秋津を訪れる河本、そのときには旅館を廃業した新子だったが、河本は新子との肉体の情欲にだけ溺れる。新子は、河本にいっしょに死んでくれと言う。そして最後、河本と別れたあとに、思いつめた新子は手首を剃刀で切るのだった。
原作では、寺の次男との結婚を控えた新子が「あたしはこれでいいのよ、これで倖せだわ」と話すところで終わっており、手首を切る場面はない。
== キャスト ==
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